令和3年1月15日(金)  目次へ  前回に戻る

原始の穏やかな社会に戻りたいものである。

何とか今週も終わった。よくぞ生き抜いたなあ。また来週が来るのはイヤですが、とにかく厳しい社会から生還できて、ほっとしているところです。

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「社会」というコトバは明治から「ソーシャル」の訳語に使われて誰も疑問を持たないぐらいになっていますが、もとは古代の土地神(「社」)の祭り(「会」)のことです。

窮鄙之社也、叩盆拊瓴相和而歌、自以為楽矣。

窮鄙の社や、盆を叩き瓴(れい)を拊(う)ちて相和して歌い、自ら以て楽しと為す。

ど田舎の村の社の祭りでは、お皿をたたき、茶わんを打って、みなで声をそろえて歌い、それで自分たちは「音楽」を楽しんでいると思っているのである。

こんな社会なら、「社会」に出ていても、ほっとしますね。

しかし、このような平和な原始的な社会も、

嘗試為之撃建鼓、撞巨鐘、乃始仍仍然、知其盆瓴之足羞也。

嘗試(こころ)みにこれがために建鼓を撃ち、巨鐘を撞けば、すなわち始めて仍仍(じょうじょう)然として、その盆瓴の羞ずるに足るを知らん。

ためしに、こいつらの祭りのために、据え置きの太鼓をたたき、巨大な鐘を鳴らしてやれば、はじめてしおらしくなって、皿や茶わんを叩いているのがみじめだということを理解するであろう。

「仍仍」(じょうじょう)は志を得ずにがっかりする様子です。

せっかくのほっとする社会を都会の金持ちの豊かなやつらに嘲笑されるなんて、イヤになりますね。皿をたたき、茶わんを打つのがどうして恥ずかしいことであるのか・・・。

蔵詩書修文学、而不知至論之旨、則拊盆叩瓴之徒也。

詩書を蔵し文学を修むるも、至論の旨を知らざれば、盆を拊ち瓴を叩くの徒なり。

詩経や書経の書物を保有し、文明の学問を修了した、といっても「ほんとうのこと」の趣旨を知らないなら、皿を打ち茶わんを叩く田舎者と同じである。

巨大な太鼓と鐘でなければほんとうの音楽ではないというのだ。

この至論の旨を知ると「聖人」になるのですが、

聖人食足以接気、衣足以蓋形、適情不求余、無天下不虧其性、有天下不羨其和。有天下無天下一実也。

聖人、食は気を接(つ)げば足り、衣は形を蓋わば足り、情に適すれば余を求めず、天下無けれどもその性に虧けず、天下を有すれどもその和を羨(あま)さず。天下を有すると天下無きと、一実なり。

その「聖人」というのは、食べ物は生気を保てるだけあればそれでよく、着る物は体を覆うことができればそれでよく、満足できれば余りを手に入れようとはせず、天下を失っても自分の本質には何の失うところもなく、天下を保有していても余計なものを欲しがらない。天下を保有していようが、天下を失っていようが、どちらでも同じなのである。

聖人になると、また田舎者みたいにみすぼらしくても構わなくなるんです。

さて、

今、与人敖倉、予人河水、饑而餐之、渇而飲之、其入腹者不過箪食瓢漿。

今、人に敖倉を与え、人に河水を予(あた)うるに、饑えてこれを餐し、渇きてこれを飲むも、その腹に入るもの、箪食瓢漿(たんし・ひょうしょう)に過ぎず。

いま、仮に、ある人にでっかい穀物倉をまるまる与え、あるいはある人に大河の水をすべて与えたとする。その人が、飢えて食い、のどが渇いて飲んだとしても、そいつの腹に入るのは、竹皮の弁当箱入りの飯、ひょうたん一本分の水だけである。

則身飽而敖倉不為之減也。腹満而河水不為之竭也。有之不加飽、無之不為之饑、与守其箪𥫱有其井、一実也。

すなわち身飽きるも敖倉これがために減ぜず、腹満つるも河水これがために竭きざるなり。これを有するも飽くに加えず、これを無くするもこれがために饑えず、その箪𥫱を守りてその井を有(たも)つと一実なり。

つまり、体中が穀物でいっぱいになるぐらい食っても、穀物倉の中はほとんど減らないし、腹がだぶだぶになるまで飲んでも、大河の水はそのために尽きてしまうことなどない。いくら持っていてもそれ以上食うことは無いし、少々無くなってしまっても困ることが無い。(聖人の生き方というのは)竹の弁当箱を並べて、家中の泉の水を貯めようとしているのと同じ(有り余ってしまうほど豊か)なのである。

食べても飲んでも減らない・・・ということのようである。

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「淮南子」巻七「精神訓」より。聖人は倉いっぱいの飯を食っているようです。わしなんか最近毎日1キロぐらい増えているが、まだまだじゃなあ。

 

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