令和3年2月11日(木)  目次へ  前回に戻る

ヤタガラスは黒い。

長話はいかんな。明日は平日だから早めに切り上げて風呂入って寝なければ・・・。

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宋・仁宗の明道二年(1033)、長く仁宗と共同統治をしてきた荘顕皇太后が亡くなり、仁宗の親政が始まりました。荘顕太后はもともと仁宗の生母ではなく(そのことを仁宗には知られないようにしておった)、また夫の真宗が亡くなったあと垂簾聴政(后妃がスダレを垂れて、その奥から政務について聴き、判断すること)し、何度も臣下から政権を仁宗の単独統治に移行するよう諫言されながらこれを容れなかったこと、皇后の服ではなく皇帝の服装を着ていたこと、宦官を重用したこと、姻族を宰相に抜擢したこと・・・などから、決して評判のよい方ではなかったのでございますが、このとき、宰相の呂夷簡は、秘密裡に仁宗に

手疏八事。

手づから八事を疏す。

八項目からなる直筆の上奏を行った。

八項目というのは、

正朝綱 朝綱を正す(朝廷の綱紀を粛正すること)

塞邪径 邪径を塞ぐ(邪悪なやつが近づく道をふさぐこと)

禁賄賂 賄賂を禁ず(ワイロを禁じること)

弁佞壬 佞壬(ねいじん)を弁ず(悪いやつを見分けること)

絶女謁 女謁を絶す(後宮以外の女性の面会を禁絶すること)

疏近習 近習を疏にす(お気に入りたちとの距離を置くこと)

罷力役 力役を罷む(強制労働を止めること)

節冗費 冗費を節す(無駄な支出を節約すること)

であった。(あとは問題なさそうだが、「女謁を絶す」は政治的にまずいな。)

其語甚切、帝与夷簡謀。

その語、甚だ切にして、帝、夷簡と謀る。

その際の言葉つきなど、たいへん真剣であったので、仁宗は夷簡を呼び込んでいろんなことを相談しあった。

その中に、

枢密使の張耆(ちょう・き)、枢密副使の夏竦(か・しょう)らは

皆太后所任用、欲悉罷之。

みな太后の任用するところ、ことごとくこれを罷めんと欲す。

みな太后さまが任用された方です(。南方出身で、これまでの既定ルールを多く壊してきました)。彼らはみんな罷免してしまうことですな・・・。

というコトバもあった。

「うーんんん・・・、どこで線を引くか、難しいことじゃな」

仁宗は悩んで、

退。

退く。

内邸に引き上げた。

翌日、

及宣制、夷簡方押班。聞唱其名、大駭。

宣制に及ぶに、夷簡押班にあたる。その名を唱するを聞きて、大いに駭(おどろ)けり。

人事詔書の制作指示が行われたが、ちょうど夷簡は当直で出勤していた。突然、自分の名前が出てきて、宰相(「平章事」)を解任されたので、大いに驚いた。

ということである。

実は、仁宗は、悩んで退いた後、

告郭后。

郭后に告ぐ。

皇后の郭后に相談していたのだ。

后はおっしゃった。

「張耆や夏竦の評判がよくないのは、後宮でも耳にします。・・・ところで、

夷簡独不附太后邪。但多機巧、善応変耳。

夷簡ひとり太后に附せざるか。ただ機巧多く、善く変に応ずるのみか。

呂夷簡さまだけは、これまで太后さまにすり寄りなさらなかったのかしら? もしかしたら、取り入りがうまく、何かあったときの反応がお上手だったなのでは?」

「うーんんんん」

及是併罷夷簡。

これに及びて併せて夷簡を罷む。

そこまで言われたので、夷簡も退職させることにしたのである。

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「続資治通鑑」巻三十九より。長話ではないから「女謁」でもこれは問題ない・・・と思います。

それにしても海外の各種機関や識者さまは、前後やニュアンスも顧みずに八十いくつの老人を一方的に攻撃するものなんですかね。「ポリティカルに正しい」ことは正しいことが自明なので論じる必要もありませんが、「海外からもこんなに批判」には相変わらず違和感ある・・・が、感じないようにしないといけませんね。政治的には。

また不要不急。肝冷斎はいい加減「邪径を塞ぐ」必要があるぞ。

 

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