令和3年2月19日(金)  目次へ  前回に戻る

そろそろエンマさまがお待ちなのに、日曜日シゴトとは。

もうダメだ。日曜日からシゴトなのだ。あと36時間ぐらいしか休みはないのだ。

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宋の時代のことです。

吾八歳入小学、以道士張易簡為師。

吾、八歳にして小学に入り、道士・張易簡を以て師と為せり。

わしは八歳の時に寺子屋に入ったが、そこの先生は張易簡というて、(儒者ではなく)道士であった。

なにしろ田舎であったので、儒者なんて「いなか」った・・・んじゃよ。

張易簡の寺子屋には、

童子幾百人。

童子、百人に幾(ちか)し。

百人近いガキどもが学んでおった。

その中で、

師独称吾与陳太初者。

師、独り吾と陳太初なる者を称す。

先生はいつも、わしと陳太初という子だけを褒めてくれた。

太初、眉山市井人子也。

太初は眉山の市井の人の子なり。

陳太初というのやつは、わしと同郷、四川・眉山の、わしのおやじは貧乏書生だったが、太初の家はまったくの一市民であった。

確かにいろんなことによく気が付くやつであったが、取り立てて成績がいいわけでもなく、師匠がなぜあんなに褒めるのか、よくわからなかった。まあわしもそのころはただのわんぱく坊主だったわけだが。

余稍長、学日益、遂第進士制策。

余やや長ずるに、学日に益し、遂に進士制策に第せり。

わしはそれから成長するにつれて、どんどん勉強が得意になり、ついに(ご存じのとおり)進士の試験に合格するまでになったわけじゃ。

太初乃為郡小吏。

太初はすなわち郡の小吏と為れり。

太初は、田舎の郡役所の下級官吏になったと聞いた。

その後、わしは譴責されて安徽・黄州に左遷されていたが、このとき、

有眉山道士陸惟忠自蜀来、云、太初已尸解矣。

眉山道士・陸惟忠の蜀より来たる有りて、云う、「太初すでに尸解(しかい)せり」と。

郷里の眉山で道士をやっている陸惟忠というやつが、四川からやってきて、わしに教えてくれた。

「おぬしはこんなところに流謫されて、まだ役人なんかやっているのか。同学の陳太初は、もうすでに死んで仙人になりおおせたのだぞ!」

「な、なんじゃと!!!」

わしはさすがに驚いた。

わしの年でもう尸解仙(死んで仙人となったひと)になったやつが出たとは。それがあの陳太初であったとは。

数年前、四川のひと呉師道が湖北の漢州の太守となったが、太初はその食客として世話になっていたそうである。

今年の正月元旦、太初は、

見師道求衣食銭物、且告別。

師道に見(あ)いて衣食銭物を求め、かつ別れを告ぐ。

太守の呉師道のところに面会に来て、衣服や食物や銭や物資を要求し、合わせて別れのあいさつをした。

師道は、突然ではあったが、郷里に帰るのであろうと思って餞別を与えたので、太初は礼を言って太守の官邸を出たのだそうである。

官邸を出ると、近くの市場通りに行き、

持所得尽与市人貧者、反坐於戟門下、遂卒。

得るところを持してことごとく市人の貧者に与え、反りて戟門の下に坐して、遂に卒す。

もらって手にしていた金銭や物資をすべて市場に物乞いする貧乏人たちに与えてしまい、それから手ぶらでまた太守の邸宅に戻ってきて、その門の前に座った。・・・かと思うと、もう死んでいた。

「なんと、もう死んでおるのか」

呉師道は驚いたが、そのままにもできぬので、

使卒舁往野外焚之、卒罵曰、何物道士、使吾正旦舁死人。

卒をして舁きて野外に往きてこれを焚かしむるに、卒罵りて曰く、「何物ぞ道士、吾をして正旦に死人を舁かしむるとは」と。

従卒に太初の死体を背負わせ、町の外に出て火葬にしてくるように命じた。従卒は道すがら、死体に向かって、

「どういう道士さまだ、おかげでおれさまは正月元旦から死体を担ぐ羽目になったぞ!」

と悪口を言った。(陳太初が道士の資格で転がり込んでいたことがわかりますね。)

すると―――

太初、微笑、開目曰、不復煩汝。

太初、微笑し、目を開きて曰く、「また汝を煩わすことをせず」と。

太初の死体はにやにやと笑い、ぱっちりと目を開いて、「お前さんにこれ以上迷惑をかけてはいかんのう」としゃべったのであった。

「うひゃーーーーーー!」

太初(の死体)は、腰を抜かした従卒を後目に、

歩到金雁橋下、趺坐而逝。

歩きて金雁橋下に到り、趺坐して逝けり。

すたすたと歩いて郊外の金雁橋の下(そこは漢州の焼き場であった)まで行って、座禅を組んで、また死んだ。

「死体が歩いて自分で焼き場に行ったというぞ」

「太守さまのところの陳太初さんだというじゃないか」

「わいわい」「がやがや」

焚之、挙城人見烟焔上眇眇焉有一陳太初也。

これを焚くに、挙城の人、烟焔上に眇眇焉として一陳太初の有るを見たり。

その場で火葬にしたところ、見物に集まってきた町中のひとが、その炎と煙の中に、ぼんやりともうひとりの陳太初が笑っている姿を見たという。

「すごいなあ」

知り合いから尸解仙が出たのだ。何とも晴れがましくなって、わしは陸惟忠の手を握り締めた。わしや陸惟忠にあとどれぐらいの時間が遺されているのか。その間にわれらも陳太初のようになることができるのだろうか。

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「東坡志林」巻二より。「吾」というのは、チャイナ史上屈指の文人・蘇東坡さまのことでした。それにしても先生は生徒をよく見ておられるものなのだなあ。

さて、わたくし肝冷斎にももうそんなに時間がないはずなのに、休みの日がつぶれるとは何事か。そろそろ勝手に尸解しちゃおうかな。

(チェシャ―猫がにやにやしていないことがバレた!

 

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