令和3年2月21日(日)  目次へ  前回に戻る

冬の小豆洗いはつらいが、そろそろ水ぬるんでまいりました。

今日もシゴトしたのに、明日もシゴトだとは、天文官の計算が間違っているのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・

宋・仁宗の康定元年(1040)、改元初日の正月元旦、

日有食之。

日、これを食する有り。

日食があった。

計算されていたとおりなので、驚いたりすることはないのですが、

このとき、知諫院であった硬骨漢の富弼は

請罷宴徹楽、就館賜北使賜酒食。

宴を罷め、楽を徹し、館に就きて北使に酒食を賜わらんことを請う。

その@正月の宴会は中止。A音楽は鳴らさない。B(遼国からの正月の慶賀の使いが例年どおり来ているのですが、)遼の使者には(宴会場に招待するのではなく)宿舎にお酒と食べ物を送り届けること。としていただきたいと申し立てた。

「そこまでする必要があるのかなあ?」

「あります」

富弼は言った。

万一契丹行之、為朝廷羞。

万一契丹これを行えば、朝廷の羞(はじ)と為らん。

「もしもキッタン=遼国の方が、宴会を止めたり音楽を止めたりしたとしたら、わが国の大恥ですぞ」

わが国は、天が日食という形で警告を示しているのに、それに配慮せずに宴会していた平和ボケだと世間に言われてしまいますぞ! これは大変だ。

「むむむ・・・」

参知政事(副総理)の宋庠が申し上げた。

以為不可。

以てすべからず、と為す。

「富弼の申し立ては、採用してはなりませぬ」

これまでの朝廷は、そのようにしてこなかったからである。

「むむむ・・・」

結局、

遂仍挙宴楽。

遂に仍りて宴楽を挙ぐ。

宋庠の発言を根拠に、最終的には宴会を行い、音楽も演奏した。

後聞契丹罷宴。帝深悔之。

後、聞こゆるに、契丹宴を罷む、と。帝深くこれを悔ゆ。

その後、遼に行っていた宋からの慶賀使が帰ってきて、遼の方では元旦の宴会を中止した、と聞き、仁宗皇帝は大いに後悔したという。

・・・というのが、「続資治通鑑長編」の説。

「遼史」「興宗本紀」を閲すると、同じこの元旦の日、

上進酒于皇太后宮、御正殿。宋遣王拱辰、彭再思来賀。

上、酒を皇太后宮に進め、正殿に御す。宋、王拱辰、彭再思を来賀せしむ。

遼の興宗皇帝は、(大きな力を持っていた)皇太后さまにお酒を献上し、皇太后宮の正殿にお出ましになった。(この儀式には)宋から王拱辰と彭再思というふたりの使者が来て、謹賀新年を申し上げた。

と書いてあります。

こちらによれば、宴会はしたみたいです。

わたくし清の畢沅が思いますに、

蓋遼以里差不見日食、故司天不奏。初未嘗罷宴也。長編係伝聞之偽。

けだし、遼は里差を以て日食を見ず、故に司天奏せざるなり。初めよりいまだかつて宴を罷むることあらず。長編は伝聞の偽に係らん。

実は、このときの日食は、「里差」(位置の差)があって、遼の方では観測されなかったのである。だから、遼の天文官はそのことを奏上していないし、はじめっから宴会を中止するとかしないとかいう議論はあり得なかったのだ。だから、「続資治通鑑長編」の記述は、フェイク情報に乗っかってしまったもの。

当然、富弼の発言のうち、「キッタンが宴会を止めたらわが国の大恥」という部分は無かったはずであるので、わたしの編集した「続資治通鑑」からは除いておきます。

・・・・・・・・・・・・・

「続資治通鑑」巻四十二より。富弼びいきの人がでっち上げたフェイクのようですが、考証も面白いのですが、当たり前のように「日食だから謹慎しなければならん」「なのにどうしてしないのか、大臣の輔弼がなっとらん」と政治問題化するのが面白いですね。

「天文現象が政治化するなんて、ゲンダイに比べて劣っているなあ、わははは」

と嗤っているゲンダイ人のみなさんもおられて、まさに「国の羞」というべきでしょう。ゲンダイでは「株価が下がったり上がったりした」「感染症検査で陽性者が増えたり減ったりした」「年寄の男性が、話の長い女性もいる、と言った」などの立派なことしか政治化しませんから、たいへん進歩しています。

 

次へ

inserted by FC2 system