令和3年5月7日(金)  目次へ  前回に戻る

「緊急事態宣言も解除されるはずだし、明日は県境の向こうに行ってみようか」「ちゅー」「(こいつら現状分析出来てないんニャ?)」

もうダメだ。来週が刻一刻と近づいてきている。こつこつと、ああ、月曜日の足音さえ聞こえるのだ。あわわわ・・・・

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昨日、蘇東坡とその弟子が出てきましたので、今日は黄山谷とともに、「蘇門四学士」と呼ばれる高弟の一人、秦観の「詞」を味わってみましょう。

暁日窺軒双燕語、 暁日に軒に窺う双燕の語は、

似与佳人、    佳人と、

共惜春将暮。   ともに春のまさに暮れなんとするを惜しむに似たり。

屈指艶陽都幾許。 艶陽を屈指するにすべて幾許(いくばく)ぞ。

可無時霎閑風雨。 時に霎閑(しょうかん)の風雨無かるべけんや。

「艶陽」は「いろっぽい感じの春の日」、「霎」(しょう)は「小雨」ですが、「しばらく」の意にも用います。「霎閑」で「しばらくの間」。

 夜明け方、軒の端から顔を出すつがいのツバメ。その会話を聴いたなら―――

 おまえと(おれが)話しているコトバとそっくりだった。

 おれたちもツバメも春が過ぎていくのが残念でならないのだ。

 心浮きたつような春の日は、指折り数えてあと幾日だろうか。

 その間に、ちょっとした風や雨の日も無いわけではないのに。

「ツバメがそんなこと話しているはずがないだろう」

と怒ってはいけません。東洋の昔のひとだから、非科学的なんです。

流水落花無問処、 流水落花、問うも処無く、

只有飛雲、    ただ飛雲の、

冉冉来還去。   冉冉(ぜんぜん)として来たり、また去る有るのみ。

持酒勧雲雲且住。 酒を持して雲に勧む、雲しばらく住(とど)まれ。

凭君碍断春帰路。 君に凭(よ)って碍断せん、春の帰路を。

「冉」(ぜん)はもともとは頬ひげをいい、しなやか、という意味も持ちますが、「冉冉」(ぜんぜん)と連なると「漸漸」(ぜんぜん)と通用して、「だんだんと行く」「少しづつ進む」の意味になります。

「楚辞」離騒に曰く、

老冉冉其将至兮。 老いの冉冉としてそれまさに至らんとす。

 老いらくが、だんだんと、ああ、ちょうど今、やってこようとしているんだよ、あわわ。

みたいに使います。

 落ちた花びらが水に浮かんで急ぎ流れていく―――いったいどこに行くのか。問うてみても答えはない。

ただ、空行く雲だけは、

ゆったりとやって来て、ゆったりと移動していくのだ。

酒を満たして雲に杯を進めよう。雲よ、しばらくはそこに停まれ。

春が去っていくその道を、おまえの力でさえぎってはくれないか。

「雲にお酒勧めてどうすんねん?」

という突っ込みが聞こえてきそうです。雲に話しかけて、言うこと聞かせようなんて、ははは、如何に昔の東洋の人だからオロカだといっても程があろうになあ。

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宋・秦観「蝶恋花」詞(「蝶が花を慕う」のうたの節で)。11世紀のリリシズムです。如何に我々のゲンダイ人の感受性が、彼らの宋以降の文化人の営為の上に組み立てられているか、わかろうというものではありませんか。

・・・少し落ち着いて耳を澄ませてみたら、「月曜日の足音」ではなくて、「雲の流れる音」のような気がしてきました。まだ明日明後日は休みだから気を楽にして暮らしたいと思います。ご心配をおかけしました。

茨城のサイコパス殺人事件の犯人が捕まったようです。今日はツバメや雲の出てくるファンタジックな引用でしたが、毎日漢文を読んでいるので、チャイナ文学名物の「残虐」系の記述を一日一回は目にします。みなさんにも紹介してあげたいのですが、みなさんが「肝冷斎はこんな話が好きなのかも。サイコパスかも」と勘繰るといけないので、ときおりしか紹介しておりませんが、今日も読んでしまいました。ほんとにチャイナの人はこういうの好きだなあ。感心しますよ。

 

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