兵は神速を貴ぶ。のそのそ野郎は絶滅だ。
本日は雨で寒いので所用は中止。体力は温存できたが体重は増え、しかも眠い。
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「こういう眠くて寒い日、相手の体重が増えているような時にこそ、攻撃をかけるにはふさわしいのじゃ。
兵之情、主速。乗人之不及、由不虞之道、攻其所不戒也。
兵の情は、速やかなるを主とす。人の及ばざるに乗じ、虞(はか)らざるの道に由り、その戒めざるを攻むるなり。
用兵における基本思想は、とにかく速くすること。そして、相手がまだやれていないことを利用し、相手が予想していない方法を使い、相手が警戒していない時・処に攻撃することを狙うんじゃ」
「はあ。突然言われましても・・・」
「そのように「孫子」に書いてあるんじゃ。おまえも読んでおるじゃろう」
「はあ。でも、そう理屈で言われましても・・・」
「わかりました。それでは、わたくしが具体例を示してみましょう」
「あなたは?」
「わしは何某、「孫子」に「何氏注」をつけた者です。一時期、五代の何延錫だと言われていましたが、文中に北宋の梅堯臣について述べたところがあるので、五代の人ではなく、宋代の何なにがし、名前は未詳とされております」
「はあ」
では、まず、三国期の戦例を挙げます。
〇その一 司馬仲達篇
三国・蜀の将軍・孟達が魏に降伏した。しかし、これは蜀相・諸葛亮の指示を受けた偽降で、孟達は、蜀と連絡を取るだけでなく、ひそかに呉とも通謀して、中原への進出の機会を狙っていた。
しかし、この時期、魏の実質的最高権力者であった司馬仲達は、孟達の降伏が不自然だと思い、その周辺を探らせたところ、両国(「二賊」と書いてあります)と頻繁に文書のやりとりをしていることが明らかとなったのである。
そこで、仲達は、まず
以書紿達以安之。
書を以て達を紿(あざむ)きて以てこれを安んず。
文書を送り、その中には疑っていることなど一言も触れず、孟達を欺いて安心させた。
達得書、猶予不決。
達、書を得て、猶予決せず。
孟達は、文書を見て、まだ疑われていないのかとも思い、行動を決めきれなかった。
この時点で、諸葛亮に、
「我が城・宛は魏の城都・洛陽から八百里、蜀の成都からは千百里離れております。現在まだ仲達からははっきりは疑われていないようですので、彼の虚をついて挙兵し、その際に早馬でご連絡したいと思います。その使者が成都に向かい、蜀の援軍が来るまでには一か月ぐらいかかりましょう。その間は城を固めて、仲達の兵を引きつけてお待ちする所存」
と書き送っている。
だが、仲達はこの間にすでに、
潜軍進討。諸将皆言達与二賊交構、宜審察而後動。
軍を潜めて進討す。諸将みな、「達と二賊交構す、よろしく審察して後動くべし」と言えり。
ひそかに洛陽から追討軍を進発させていた。ただ、将軍たちはみな声をそろえて、
「孟達めは蜀・呉の二敵国と頻繁に連絡を取っております。彼らがどう動くのか、よく見極めてから行動を起こすべきです。
孟達の守る宛城はおそらく「おとり」、ここで援軍を待つ、という作戦でしょうから」
仲達は言った、
達無信義、此其相疑之時也、当及其未定、往討之。
達、信義なく、これその相疑うの時なり、まさにその未定に及びて往きてこれを討つべし。
「孟達はどちらの国からも信頼されているわけではない。彼が動かないと両国も動かないだろう。まだお互いに腹の内を探りあっている状況じゃ。まさにこの未定の状況のうちに、行ってやつを討つべきであろう」
「なるへそ」
そこで、魏の諸将らは、
倍道兼行、八日到其城下。呉蜀各遣其将、分諸将拒之。
道を倍にして兼行し、八日にしてその城下に到る。呉蜀おのおのその将を遣るも、諸将を分けてこれを拒めり。
一日の行軍行程を倍にして昼も夜も進軍し、八日後には宛の城の城下に到達した。この間、呉・蜀もそれぞれ急いで、部将単位の援軍を出したが、魏の将軍らがその進路上に待ち構えて、移動を遮った。
ああ。
挙事八日、而兵至城下、何其神速也。
事を挙げてより八日、而して兵の城下に至るとは、何ぞそれ神速なる。
行動を開始してから八日で、もう軍勢が宛城のもとに至るとは、なんと人知を超えた速さであろうか。
さて、宛城は三面が水に阻まれ、もう一方が木柵によって守られており、守城者側はこの一方面にだけ兵を集中させて守備する仕組みとなっていた。ところが、仲達は
渡水、破其柵、直造城下、八道攻之。
水を渡りてその柵を破り、ただちに城下に造(いた)りて、八道よりこれを攻む。
三面の水濠から兵を進め、そこから逆に木柵のある側に進出して柵を破壊し、城の周囲を八方向から取り囲んで攻めたてたのである。
これは、
相手がまだやれていないことを利用し、相手が予想していない方法を使い、相手が警戒していない時に攻撃すること
の例である。
その八日後には、孟達の甥・ケ賢と部将の李輔らは、
開門出降、遂斬達。
門を開きて出降し、ついに達を斬る。
孟達を斬って、城門を開いて降伏してきた。
蜀や呉の本格的な援軍の到達する、はるか前に目的を達することができたのである。
〇その二 李靖篇
こちらは、唐の統一過程での戦例です。
名将・李靖は、太宗・李世民が長安を中心に、群雄を平定している間に、別動隊として湖南の蕭銑を攻めた。
この際、まず兵を四川の夔州に集めたが、時に季節は秋の出水期であり、下流にいる蕭銑は、
江水泛漲、三峡路陥、必謂靖不能進、遂休兵不設備。
江水泛漲し、三峡の路陥れり、必ず靖は進むあたわずと謂いて、遂に兵を休めて設備せず。
「長江の水があふれかえっている季節だ。三峡(もちろんまだダムはありません)沿いの街道は水びたしで崩れている。李靖の兵は進軍してくることができるはずがない」
と言って、自軍の兵士を分散させ、農事に携わらせていた。
一方、
九月、靖乃率師而進。将下峡、諸将皆謂停兵待水退。
九月、靖、すなわち師を率いて進む。まさに峡を下らんとして、諸将みな謂う、「兵を停どめて水の退くを待たん」と。
よりによって水の出の激しい旧暦九月、李靖は進軍を開始した。これから三峡を下る、という地点で、さすがに将官たちはこぞって、「この先はあまりに危険でござる。ここに兵をとどめて、水の退く冬期を待つべきです」と言った。
李靖は言った。
兵貴神速。機不可失。今兵始集、銑尚未知。
兵は神速を貴ぶ。今、兵始めて集まり、銑なおいまだ知らず。
「軍事は何事も人知を超えて速いぐらいなのがいいのだ。我が軍の兵は最近集結したばかりで、蕭銑はそのことをまだ知らぬ。
若乗水漲之勢、倐忽至城下、所謂疾雷不及掩耳、此兵家上策。
もし水の漲るの勢に乗じて、倐忽(しゅっこつ)として城下に至れば、いわゆる「疾雷、耳を掩うに及ばず」にして、これ兵家の上策なり。
もし、増水した水の勢いに乗じて舟を進め、あっという間に湖南の地に至れば、これこそ「突然のカミナリの音、耳を塞ごうとしても間に合うものか」という状態であり、軍事的には最高の効果を持つことになろう。
縦彼知我、倉卒徴兵、無以応敵、此必成擒也。
たとい彼の我を知りて倉卒に兵を徴するとも、以て敵に応ずる無く、これ必ず擒と成すなり。
もし向こうがこちらの動きを知って、あわてて分散している兵士らを集めるとしても、(そのスピードなら)敵対するヒマも無く、必ず撃滅ないしは捕獲することができるであろう。
大チャンスなのだ」
「なるへそ」
そこで、李靖の軍は舟を調達して長江を下り、もちろん水難に沈んだ船も多かったが、
遂降蕭銑。
遂に蕭銑を降す。
結局、蕭銑を降伏させた。
これも神速にして、
相手がまだやれていないことを利用し、相手が予想していない方法を使い、相手が警戒していない時に攻撃すること
の例でございますぞ」
なーるほど。いやー、勉強になるなあ。
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「十一家注・孫子」九地篇より。人の注釈を読むだけで実戦まで知ったふうなことがいえるようにしてあります。ありがたいなあ。みなさんも、一家に一冊は揃えよう。