令和4年4月20日(水) 目次へ  前回に戻る

タケノコごはんだとより美味い。

タケノコ美味かった。晩飯は食いすぎ。

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杜甫の詩に、

筍根稚子無人見、 筍根の稚子、人の見る無く、

沙上鳬雛旁母眠。 沙上の鳬雛、母の旁(かたわ)らに眠る。

タケノコの根の「小さな子ども」は、誰にも見られることがない。 ・・・ @

川岸の砂の上では、カモのヒナが、母鳥の横で眠っている。・・・ A

というのがある。

宋の「冷斎詩話」は、唐代の詩に、

稚子脱錦綳、 稚子、錦綳を脱ぎ、

駢頭玉香滑。 駢頭の玉、香り滑なり。

小さな子どもが錦のをおむつを脱がされて(足を出してい)るように、

二つの頭がうまそうにぴかぴか光っているわい。

とあることから、

以稚子便作筍。

稚子を以てすなわち筍と作す。

ここでいう「稚子」(小さな子ども)は、タケノコのことなのだ。

と解釈している。

したがって、@は、

タケノコの根はまだ小さくて、誰にも見つけられない。

となるのである―――

と言っているが、

何謬之甚。

何ぞ謬れるの甚だしき。

なんでこんなひどい間違いをするのかね。

此詩蓋謂筍之脱籜、如小児之解綳。便以稚子為筍則非也。

この詩は、けだし筍の脱籜を謂いて、小児の綳を解くがごとしとするなり。すなわち稚子を以て筍と為すはすなわち非なり。

この詩は、タケノコの皮が剝がれていくのを、小さな子どものおむつが脱がされていくようだ、と譬えているだけなのだ。したがって、「稚子」はタケノコそのものではないのである。

つまり、@は、

タケノコの根が子どものおむつを外すように剝かれていく、誰にも見られること無く。

という訳になるはずなのである。

―――と、ここまでは清の桐江先生の説。

わたくしが考えますに、この「稚子」は「雉子」(キジの子ども)の誤字ではなかろうか。そうすると、二行目の「カモのヒナ」とちゃんと対句になるのである。

蓋筍生乃雉哺子之時、言雉子之小、在竹間、人不能見故也。

けだし、筍の生ずるはすなわち雉の子を哺(はぐく)むの時なれば、雉子の小さく、竹間に在りて、人の見るあたわざるを言うが故なり。

つまり、タケノコの出てくる季節は、キジが子を育てる時節でもあるから、キジの子がまだ小さくて、竹の間にいるけれど、人には見つからない、ということを言っているだけではかろうか。

そうすると、@は、

タケノコの根っこのあたりにいるキジの子は、小さくて誰にも見つからない。

になります。Aと比較してみてください。

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清・杭世駿「訂訛類編」巻三より。重箱は隅っこが美味いんです。たしかに、こんなことをたくさん研究すれば、人格を磨くことができそうですね。

 

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