令和4年5月18日(水) 目次へ  前回に戻る

「今ひとたちの逢ふこともがな」。もう二度と会えない人も多くなってまいりました。

年寄りは今日のことは忘れやすいが昔のことは覚えているのじゃ。

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明・英宗の正統五年(1440)、広西から北京に、一人の老僧が護送されてまいりました。

僧自言、九十余、且死、思葬祖父陵旁耳。

僧自ら言うに、「九十余にしてまさに死せんとし、祖父の陵旁に葬られんことを思いしのみ」と。

僧侶が自ら言うには、

「もう年は九十いくつになった。まもなく死なねばならぬ。そこで、祖先の墓の側に、わしも葬ってもらいたいと思って名乗り出たのじゃ」

と。

そして、自分は、永楽帝に簒奪された建文帝・朱允炆その人である、と名乗ったのである。

建文帝は、建文四年(1402)に南京で焼け死んだ・・・ことになっているのですが、死体が見つからなかった。皇后の死体を建文帝として葬り、その治世の記録さえ全て消し去られ、「無かったこと」になって、四十年近く。現在の皇帝は永楽帝の曾孫に当たる。

この僧は南京から逃亡した時のこと、その後、雲貴や広州で身をくらましていた時期のいきさつなど、かなり如実に語り、その内容は北京政府に秘蔵されて公開されることにない当時の記録とも、完全に一致した。

・・・のですが、調書を作成した御史が、最後に確認した。

建文帝生洪武十年、今当六十四歳。如何九十余。

建文帝、洪武十年に生まるれば、今まさに六十四歳なり。いかんぞ九十余なる。

「一つ教えていただきたいのですが、建文帝は存在したことさえ消されていますので、一般の方はご存じないでしょうけど、官庁に残っている記録をみると洪武十年(1377)のお生まれのはずで、今年は六十四歳のはずなのですが・・・。どうして九十何歳とおっしゃるのか。記録が間違っているのでしょうか」

「むむ・・・」

僧詞屈、乃自陳、姓名為楊行祥、河南人。洪武十七年度僧、歴遊南京、雲南、至広西。

僧、詞屈し、自ら陳(の)ぶるに、「姓名楊行祥、河南の人なる。洪武十七年度僧し、南京、雲南を歴遊して広西に至る」と。

僧はそれに対して反論できず、とうとう言い出したことには、

「じ、実は、拙僧は俗名・楊行祥と申し、河南の生まれ、洪武十七年に僧になることを(国に)許可され、南京、雲南を遊行して、広西にまいった者でございます」

と。

この調書を皇帝までご報告したが、正式の裁判のしようがない。建文帝なんていない、のですから。

しばらく未決の獄に留置していたが、

越四月死。

四月を越して死せり。

四か月ぐらいで死んでしまった。

死因は単なる老衰で、大往生であった。

しかし、南京の脱出やその後の逃亡に関するこの僧の口上には、たいへんリアリティがあり、

或曰、建文帝遜国後、為僧于雲南広西間。好為詩。行祥偶同寓、竊其詩、遂冒其名。

或いは曰く、建文帝、遜国(そんこく)の後、雲南・広西の間において僧為り。好んで詩を為(つく)る。行祥たまたま同寓し、その詩を竊みて、ついにその名を冒せしなり、と。

まことしやかに囁かれたのは、

・・・建文帝は国を遜(ゆず)られた後、雲南や広西の辺境地帯で僧侶となっているらしい。詩を作るのがお好きな方だったから、ご自分の経験を詩にしておられたであろう。今回の僧侶・楊行祥はたまたま同じ宿に泊まったときに、建文帝の書き溜めた詩集を盗んで、それをもとにしてその名を騙ったのだそうだ。

ということであった。

建文帝は生きている・・・のカモ知れません。

なお、永楽帝による「簒奪」と言えないので、建文帝の「遜国(国を遜(ゆず)る)」と言うんです。無いことなんですけど。

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「明通鑑」巻二十二。中公新書の「中曽根康弘」を読んでいるんですが、中曽根さんが総理になったのは昭和57年(1982)だったそうです。それからもう四十年経ちました。中曽根さんが「戦後政治の総決算」と言ってた「戦後」がその時までで37年間だったので、それよりも今までの方が長くなってしまったのだ。そうかあ、四十年といえば、亡命した皇帝も出現してきてもおかしくないぐらいの長い期間です。中曽根さんのころ覚えているひとなんかもういませんよね。もう総決算されているだろうなあ。

 

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