フィールドワーク録22−1 (起:令和3年1月1日(金))  目次へ  令和2年3月14日〜へ

富士山はいいなあ。他のやつらを見下していられるからなあ。

1月1日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・

氷川系初詣を兼ねて、舎人遺跡近辺から伊興遺跡へ。

〇舎人氷川神社 ・・・ 見沼代親水公園駅を降りてすぐにあります。

〇舎人諏訪神社 ・・・ ↓の毛長の姫を恋していた舎人郷の若者を祠るので、毛長神社の方を向いているともいう。毛長川を隔てて、氷川男体と氷川女体のような臨御などの神事があったのであろう。

〇伊興遺跡 ・・・ このあたり「淵の宮」といわれ、かつて東京湾に足立の陸地ができていくとき、大宮方面から氷川族(出雲族の一派か)が進出してくる際の最初の根拠地であったともいう。弥生から古墳期の水辺祭祀遺跡として名高い。が、年末年始で休み。

せめてあの説明板のところまででも入れてくれればなあ・・・。

〇伊興氷川神社 ・・・ 伊興遺跡の上にある「淵の宮」。神殿の下は古墳だという。

現状は方形の基壇でしかありません。しかし近くから鉄剣とか出てるらしいです。

〇白旗塚古墳 ・・・ 頼義・義家が白旗を立てたという伝説あり。

「新編武蔵国風土記」によれば、祟り地であったようである。

〇毛長神社 ・・・ 毛髪を神体とする。スサノオの妹神とか、↑の毛長族の姫様で自殺したやつだとか伝説あり。

川向うの諏訪社と向かい合っているという。

毛長川。今では川口から流れてくる都市型河川だが、かつては東京湾の入り江であった。

〇新里泉蔵院 ・・・ 真言宗。十三仏や六地蔵あり。

十三仏さま。名工・八代さんとかが補修している。

〇入谷氷川神社 ・・・ 塚の上に八幡神社があり、北条氏が岩槻を攻める際に白旗を立てたとかいうので白幡塚ともいったそうである。土地区画整理の際に氏子らが塚を遺すことにしたので、今も円墳の上に神社が立つ。ただし遺跡調査では、埋葬施設や埴輪などは出ていない、とのこと。

古墳ぽいのだが・・・。

1月2日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相模二宮・川匂神社へゴートゥー!

〇川匂神社 ・・・ もと師長国の一宮であったが、相模国と合併したとき、相模一宮の寒川神社と一宮の座を争い、三宮・比比多の仲介で治まったという。今も毎年、大磯の六所神社(相模総社)の祭りでそのときのことが繰り返されるそうなので、一度見てみたいのですが、機会はないままである。

祭神は大山祇さま。相模の国も相模川より西は首都圏とは言い難い静かな雰囲気である。このあたりも緊急事態になるというのはどうも考え難い。放っておいても20時以降外出しているひとなんていないのでは・・・。

題額は隣の大磯に住んだ伊藤博文。二宮の明治の指導者・伊達時が書いてもらった。伊達は軽便鉄道を作ったり、いろんな活動をしています。駅前に顕彰碑が建つ。

そのあと、海を見に行ったぜ。

風が強く、荒れていたぜ。

1月3日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明日はもう平日か、と思うと、心が荒んできましたが、がんばって大庭御厨を調査。

藤沢の町はもと鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した大庭御厨で、鎌倉時代には御家人として大庭景勝が名高い。その後、大庭氏は小田原北条氏に滅ぼされた。

〇大庭神社 ・・・ 式内。鎌倉景政も祀られています。鐘撞きもできる。

引地川からの登り口。

〇大庭城址公園 ・・・ 大庭氏が駆逐されたあと北条が入ったが、さらに北条滅亡時に落城し、そのまま廃城となったという。一の廓あたりは平坦化されているが、縄文以来の遺跡である。

 この南口の方は土塁・空堀もよく遺り、いかにも後北条の山城であると感心させられる。

〇舟地蔵 ・・・ 北条が大庭城を落とすとき、引地川の水を干して攻めることを教えたばばあを北条は口封じに斬り殺したといい、そのばばあを祠る地蔵だそうである。

ひょうたんがぶらさがっています。

元は数百メートル離れたここにあったそうです。このあたりはちょっと暗くて寒い。

〇元大庭神社 ・・・ 元・舟地蔵に近い。大庭神社も、もとはここにあったそうです。

周囲は元禄期のお墓(いわゆる参り墓)などあり、古い農村である。

〇台谷戸稲荷(の森) ・・・ 元舟地蔵から引地川に降りる斜面に立つ。「台」地の上にあって「谷戸」を見下ろしている場所です。

タブの木が有名だそうです。

〇蟠龍山宗賢寺 ・・・ 16世紀初頭(永正年間)の建立。龍の骨を所有しており、雨ごいに強力であったという。

左手にあるのが竜骨堂。

1月9日(土) ・・・・・・・・・・・・・・・・

また非常事態宣言になったので、南の方に行くのをキャンセルし、高田馬場から神田川・善福寺川を遡ってみた。

〇淀橋 ・・・ 淀川あたりに似ているから、と淀橋と名付けたのは家光さま。ここらへんのやつらは淀川なんか見たことないから「なるほど」と言いながら地名を変更したのでしょう。もともとは「すがたみずの橋」というのだそうで、伝説の中野長者・鈴木九郎が財宝を誰にも知られないところに埋めに行く、そのとき、朝、この橋を渡って行くときは連れて行った人夫が、帰りには(場所を知られないように殺されて)姿を見ないものだから、誰いうともなく「すがたみずの橋」というようになったという。

甲州街道が中野に出ようとするところである。

〇杉並区立郷土博物館 ・・・ 30周年。

30年前だと、わしが杉並区に住んでいたころは無かったということじゃ。

井草式縄文土器、板碑、江戸時代の世帯状況、原水爆禁止運動の歴史、杉並の民俗など展示は充実していたが、特に二階の昭和の暮らしや、企画展の「昔のくらし今のくらし」がそこそこオモシロかった。ちゃぶ台の上は、ごはんとみそ汁とめざし二匹づつと、納豆みたいなやつと卵焼きみたいなやつと、そして「のりたま」である。コロナ自粛でこんなのが食べたいんだよなあ。手回し絞り器の洗濯機や豆炭あんかを見ていて、無造作に「60年前の暮らし」と書いてあったの見たら、不意に涙ぐんでしまった。あのどうしようもないコドモが、このどうしようもないじじいに、あっという間だったなあ。最近土日になるたび泣いているなあ。

1月10日(日)・・・・・・・・・・

午前中は戸田にネコえさやり、午後のテレ会議に顔を出したあと、どこかに行きたくてしようがなくて青梅街道を歩いていましたが、さすがに一晩中という気にもならず帰ってきた。

1月11日(月)・・・・・・・・・・

ここまでだったら行ってもいいのカモ。

〇松田 ・・・ 南足柄の松田は、松田惣領、松田庶子という中世以来の地名の遺るところです。

石像の多いところでした。この十王像は200年以上前に作られたそうですが、子孫の方が今も護っておられる。

ここに行きたかったんです。延喜式内・寒田神社。祭神はヤマトタケル。おみくじ手掛かりになった。ありがとうございます。

十文字橋を渡って大雄山方面へ。

〇足柄 ・・・ 十数年ぶりに来てみました。市役所とかちゃんと完成しているなあ。

「範茂歴史公園」の藤原範茂さまのお墓(宝篋印塔)。範茂さまは参議で、後鳥羽院が騒乱を起こしたときに責任者として鎌倉に連行されることになり、ここまで来て関本宿で自死を願い、入水したのである。左側の石碑の題額は有栖川宮熾仁親王の書。

大雄山駅前にあった。むかしはなかったような気がします。これを見ると、ドウブツたちはやはり「まさかり」への恐怖で従っていたのではないであろうか。

穴部の「姥神社」。金太郎を育てた山姥が祀られている。

〇久野 ・・・ 久野古墳群を見て、そこから北条幻庵邸跡に回ろうとしたのだが、さすがに日が暮れてきたので果たせず。

久野2号墳近くの諏訪稜遺跡。縄文遺跡である。この尾根は南に相模湾(東海道)、北に酒匂川(矢倉沢往還)が見下ろせ、富士山も見える素晴らしい場所で、縄文遺跡があちこちにあるそうです。

西相模最大クラスの円墳である久野1号墳。

これは墳頂から酒匂川方面を見下ろす。もっと右手には相模湾、左手は丹沢山系である。

久しぶりで式内社+中世遺跡+古墳の3点セットで満足した。明日が来なければシアワセなまま過ごせるのになあ・・・。

1月16日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・

不要か不急かわかりませんが、府中に行ってみました。

〇布多(ふだ)天神社 ・・・ 式内社。もとスクナヒコナを祀っていたそうです(スクナヒコナ祭祀社は「天神」を名乗ることがあるそうです)が、現在では菅原道真公が主神のようです。

背後の社叢は昭和30年代に府中に住んでいた水木しげる様が、鬼太郎ハウスのモデルとして描いていたそうである。

〇虎狛(こはく)神社 ・・・ 式内社(論社あり)。ゲンダイでは小さな社地になっておりますが、近世までは神宮寺を有する大社であったという。

覆屋の中の本殿は17世紀のものです。かなり古い。

〇深大寺 ・・・ 9世紀、元三大師開基という古刹。300円で国宝・白鳳釈迦木像を拝観できます。

深大寺といえばソバであるが、そばパンを食ってみた。むむむの味である。

深沙堂。水神・深沙王(沙悟浄であるから、カッパ?)を祠る。深大寺周辺は古代湿地帯だったのである。

〇青渭(あおい)神社 ・・・ 式内社(論社あり)。ここも水神を祠る。「イ」は「波」のことだそうです。もともとは深大寺が神宮寺だったはず。

数百年もののケヤキがこのすぐ左手にありますが、この神社前はもと「池の谷戸」と呼ばれ、青池(湿地)であったよし。紀元前4000年紀の縄文土器が出土する古い水辺遺跡である。

〇虎狛山祇園寺 ・・・ 虎狛神社の神宮寺。温井屋敷跡地という。温井家の墓地もあった。

ここの明治時代の住職は自由民権家で、民権運動殉難者の法事を営んだという。

その際招かれた板垣伯が手植えの松二本。今は曲がりくねりひねくれながら、それでも何とか日本に民主主義が根付いているわけである。なお、民権住職の甥(養子)が鳥類研究者の中西悟堂翁である。「悟堂」というのは坊主の名前だったんですな。

一日で論社ありとはいえ式内社を三つもお参りしました。近畿や伊勢ならともかく、関東でこれはすごいことですよ。青渭神社でのおみくじもすごいいいの出たよ。所願も学業も訴訟も縁談もすべて吉なのですが、「旅行」だけは凶、とはまことに善きこと聞きしかな。

1月17日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

大井町線に乗った。

〇五島美術館 ・・・ プラネタリウムではありません。初めて来ました。

茶道具展をやっていて、それにはあまり興味はなかった。「赤絵」はいいですけどね。

庭がおもしろかった。多摩川に下るいわゆる国分寺崖線という断崖を利用して作られています。元・田健次郎(台湾民政長官、逓信省総務長官を歴任した官僚)邸庭園である。

これは「稲荷丸古墳」という場所。碑がありますが、その裏には古墳についての記述はなく、このあたりが縄文遺跡であることが書かれています。

灯篭の種類が多く、みどころである。

「仏域」とされているゾーンがあり、石仏がたくさんおられる。ここはその中の「大日洞」。

〇野毛大塚古墳 ・・・ 5世紀初頭の帆立貝式古墳である。

前方部は失われているようである。墳頂部から四つの石棺が出ている。

〇等々力渓谷、横穴群、等々力不動尊 ・・・ 今日は15時からテレ会議のため大急ぎで一とおり回って帰ります。人生のすごく苦しい時間をここで過ごしていたことがあります。やはりそのころに比べると今は幸福で、いろんな人やものに感謝の泉湧く状態。

不動滝。

1月23日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

生き急ぐかのように今日も都下にて不要不急。

〇府中御嶽塚古墳 ・・・ 武蔵野線西府駅の駅前にあります。6〜7世紀の御嶽塚古墳群の唯一の遺存遺跡。付近は、中世には館跡だったようです。

少し南に行くと「立川崖線」に出て、その向こうは多摩川になります。

〇府中熊野神社古墳 ・・・ 熊野神社は近郷の「鎮守さま」でしたが、その裏山について、明治初めの記録に「石窟(いしあな)」の記載があり、平成15年に非破壊調査をしてみたら、すごい石室があるので、発掘され、三段構築の上円下方墳であることが判明。現在まで、奈良唐古、静岡沼津、福島白河の三例しかなく、しかもそれらより古くて巨大、というので国指定史跡となり、構築当時の葺石も復元されたのである。

神社の社殿(江戸期のもの。市指定文化財)も少し前に引き屋されたそうです。

上の写真の社殿に左脇から回った側面。なお、この古墳、石室は南北線から七度だけずれており、磁北にほぼ一致、上円約16メートルに対して、中段の方形は一辺がルート2倍、下段はちょうど2倍(32メートル)になる極めて設計図が想定される造りになっております。

資料館(無料)あり。右の箱に入っているのは石室から出た「鞘先」の金具。「七曜紋」が描かれており、富本銭との関係が云々される。

ここから、武蔵台公園(国分寺崖線に沿う)を通って、国分寺市へ。

〇武蔵国分尼寺 ・・・ 武蔵野線の西側にあります。

講堂前。木の棒はこれに旗をとりつける竿です。普通はまっすぐ建てられるのですが、これは斜めになっているのが珍しい。なお、尼坊跡もあり、にやにやしてしまう。

この写真の向こうの林(北側です)のあたりが国分寺崖線で、

〇鎌倉街道 ・・・ が切通しになって通っています。

この切通の左側が中世寺院跡、右側に「塚」があり、中世寺院における修法壇のあとだそうである。なお、この右側は崖になってそのまま武蔵野線になり、そのあたりを古代東山道が通っていたのだ。

その武蔵野線と古代東山道(跡形もありませんが)を過ぎると、

〇武蔵国分僧寺 ・・・ 跡である。

講堂跡の北側から、木々の向こうに金堂跡があります。

裏側には、

〇現・国分寺 ・・・ が、国分寺崖線を背後にして建っています。

この山門は埼玉の方からここを菩提寺とする米津出羽守が持ってきたそうです。お寺は薬師如来の像があって信仰を集めているそうです。

ここから右手に向かうと、武蔵国分寺資料館(100円)。ぶらたもりも来たそうです。なお、資料館の入口は旧本田家長屋門。本田さんは近くの名主で、この長屋門は住居施設になっていて、本田家出身の幕末明治の医師・本田雖軒が住んでいた。住居も見ることができますが、雨でぐちゃぐちゃの靴下で上がったから、畳が腐ったかも知れません。

そこから、薄暮を湧水など見ながら国分寺駅へ。アップダウンが多いので、原地形を想像しながら歩くとおもしろいところであろう。

1月24日(日) ・・・・・・・・・・・・・・・・・

13時ごろまでオンライン会議、それから出かけて調べる。

〇小机城址 ・・・ 以前から一度行きたかったのですが、手ごろな大きさで、よく出来た中世城郭である。もと12世紀ごろから築城され、15世紀には享徳の乱で長尾景春と太田道灌が争ったといい、その後一時期廃城になるも、16世紀前期に後北条の重要城郭として復活。北条氏堯一族の居城であった。秀吉小田原攻めで落城、家康移封後に廃城となった。

鶴見川を上流から下流に見ると、その右手の丘(舌状台地というやつです)が小机城。中原街道と東海道の間にあり、今も城内を横浜線と第三京浜道が通っているという交通の要地である。次は小机城の支城といわれ、縄張りに評価の高い都築茅ケ崎城に行きたいね。

本丸跡。

本丸奥の矢倉跡から二の丸井楼跡を見下ろす。如何にも後北条らしい緊密な縄張り、深い(12メートル)空堀といい、アップダウンのある腰曲輪といい、見事である。

第三京浜道によって分断された出城側にある「富士山仙元」の碑。文久年間のものである。

〇加賀原遺跡 ・・・ 港北ニュータウン建設の際に発掘された縄文中期の遺跡で、家を建ててない月出松公園部分は未発掘。

左側の看板にも出てますが、「楕円形居住施設」といわれる珍しい竪穴住居跡が出ています。丘の向こう側は都築平地が見下ろせ、いかにも縄文人の居住地らしい景観である。

〇川和富士 ・・・ 富士信仰によるものか、現代公園の意匠なのかは不明。

驚くほどでかい。

1月30日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・

緊急事態宣言は来週解除してくれるんでしょうか。来週は立春だし、そろそろ暖かくなってくるはず。

〇府中小野神社 ・・・ 式内小野神社の論社です。こちらは町中の小さな神社ですが、境内では子供たちが元気に遊んでいて、ここの神様はまだ生きておられるのでしょう。

こちらは神紋は「三つ巴」でした。

〇聖蹟桜ヶ丘小野神社 ・・・ 府中から多摩川を渡る。こちらは「武蔵一之宮」と墨書された中世の門神像が遺されていて、14世紀にはたいへんな力を持っていたことは明らかである。

立派な随神門(「通神門」と書かれていた)です。神紋が菊紋。

境内のハート石。(人気だそうです)

〇和田台古墳群 ・・・ 桜が丘として開発され、現在遺存している古墳はごく少しです。

庚申塚古墳 ・・・ 墳上の地蔵菩薩が古拙愛すべき。

七世紀の円墳とのこと。

稲荷塚古墳 ・・・ 稲荷神社がまつられたときに第二段階が削平されているようですが、珍しい「八角墳」である。石室があり、現在埋め戻されていますが、ブロックで形状がわかるようにしてくれてあります。

不思議なぐらい八角形がわかる。一度行ってみましょう。なお、すぐ近くにも臼井塚古墳という石室が出たそうですが、そこは畑の中に埋め戻されているとのこと。

和田原光明真言塔 ・・・ 辻に祀られていますが、お地蔵さんや「光明真言」と書かれた石の前に、赤い鳥居が建つのがいいですね。このあたりは石造の仏像や碑が多く、お香立てにブロックを使うなど手作り感もあふれていて、いまだ民情の篤きを思わせる。

住宅街に古墳やお地蔵さんが遺っています。夜中通ったらコワいかも。

〇大屋敷、山神神社、関戸城天主台 ・・・ 中世の館跡と推定されています。開発され尽くしているが、多摩川と鎌倉街道を瞰制する尾根筋として、戦略的重要性があったのであろう。

山神神社(砦跡か?)から字・大屋敷方面を見下ろす。森が遺され、雰囲気のよいところである。

〇関戸合戦場 ・・・ 新田義貞が、小手指ヶ原、分倍河原で鎌倉方を破ったあと、多摩川を渡って、この関戸でまた勝利した。ここから鎌倉攻防戦の間、執権側はもう会戦の形式で迎え撃つことはできなかったのである。(その後、中世関戸宿文書というのがあるのを知りました。東国の「村」の成り立ちを知ることのできるオモシロいやつらしいぞ。)

左側の地蔵祠の前に「関戸古戦場」の碑が建っています。右側のとおりは「鎌倉街道」。なお電柱の「犬猫霊場」は時宗のお寺の中にあり、このお寺は「佐伯氏屋敷跡」とされています。

・・・ということで、今日はなんとか式内社+古墳+中世遺跡を制覇。日帰り圏には、もう行くところないかもなあ。そろそろ緊急事態解除してほしいなあ。

1月31日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今月もこれで終わり。

〇渋谷SKY ・・・ こんなものがあったので、登ってみる。〇〇と煙だからしようがない。

青空で、富士も筑波も房総も上州三山も伊豆もよく見えました。ほかにもたくさん煙のみなさんが来ていました。

〇渋谷区立松濤美術館 ・・・ なんとなくこんなところにも行ってみようかと思って行ってみた。

並んで入ったら船越桂展。これは眼福眼福じゃ。まだ生きている、しかもわたしとそう年の変わらないひと、と初めて知りました。

来週からはまた、古墳や神社や中世遺跡を地道に見つめてまいりたい。明日からツキも変わるし・・・、と思ったが、もしかしたら一月がこれでもツイている月だったりしたらどうしようか、と思うだけで、どよんとしてくる。

 

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