フィールドワーク録22−2 (起:令和3年2月6日(土))  目次へ  令和3年1月1日〜へ

いつになったら心の嵐は治まるのであろうか。今日も旅行く。

2月6日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

海老名に行ってみる。

〇有鹿神社 ・・・ 式内小社。鳩川(旧有鹿川)と相模川の合流点に祀られている。もと奥社のある座間の磯部にあったが、座間の鈴鹿明神社と争って、磯部に帰れなくなって海老名に鎮座されたのであるという。

周囲は中世海老名氏(村上源氏)の本拠地でもあります。海老名氏の古い墓石などもある。

境内内にある「厨二病庭園」。こちらは「闇の庭」ですが、「光の庭」もあり。宮司さんが整備しているみたいですが、小規模であるが、知る人ぞ知るテーマパークである。

有鹿神社本社から500メートルぐらいのところにある中社。「有鹿の池」と書かれています。いまは涸れてしまっているが、神池があったよし。ここから鳩川沿いに歩くと、道祖神や地蔵堂なども多く、古い開拓地であるようである。入沢の駅のあたりは、1570年、美濃斎藤氏の遺臣四人によって日枝神社を勧請して開かれたとのこと。

さらに鳩川を5〜6キロ遡った「磯部」の地(相模川の磯なのである)にある「有鹿神社奥社」。神様がほんとうにいそうな(ほんとにいるんですが)湿地にある。

その裏手は・・・

〇勝坂遺跡公園 ・・・ 縄文時代の住居跡のある勝坂遺跡である。

復原竪穴住居です。木々の向こうに相模川とその向こうの丹沢山地が見えます。

〇石楯尾神社 ・・・ 相模川上流域の神様である石楯尾神社がこのあたりにも祀られていました。

〇勝坂遺跡(縄文土器出土地) ・・・ 有名な人面把手付き壺が出たところ。

このあたりから昭和2年に出たそうです。

〇中村家住宅 ・・・ 国登録建物。

明治時代、鎌倉大工のひとが十年かけて作った、全国に類例をみない「和洋折衷住宅」だそうです。なお、上の縄文土器出土の協力も中村さん。

2月7日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

午後からまた会議なんで、午前中大忙しである。新川崎駅から夢見ケ崎へ。

〇加瀬台古墳群 ・・・ 原始時代は東京湾中の島だったという夢見ケ崎(加瀬台)は、古墳時代には多摩川河口に近いランドマークであり、首長による古墳が造られたようである。

9号墳。円墳です。

2号墳。夢見ケ崎台地の東南端部。向こうは慰霊塔。

3号墳。台地南側斜面にあり。石室開口部。

4号墳。忠臣蔵で名高い軽兵衛さんのお墓もある了源寺の裏にあります。

6号墳。浅間神社(富士塚)になっています。

8号墳(方墳)から7号墳(皇大神宮になっている)方面を見る。

出てこなかった1号墳、5号墳は滅失。

7号墳・8号墳の間あたりから西を見ると、この眼下に古墳群唯一で川崎市内最大の前方後円墳であった白山古墳というのがあったそうですが、昭和前期の開発で削平された(いまもごく一部残っているんですが、民家の裏側で到達できず)。「海岸部の工場用地埋め立てのために削平され・・・」と看板に書いてあったが、そうではなくてみなさんが住む住宅地として削平され、土が利用されただけなのですが・・・。

なお、夢見ケ崎はドウブツ公園になっていて、これはシカですが、たくさんのやる気なしドウブツたちが見物されていました。ほんとやる気なさそうで微笑ましい。夢見ケ崎の名は「ドウブツかわいいでちゅー」というコドモたちのために名付けられたのではなく、15世紀に太田道灌が夢で見てこの場所に来て、北東方向に佳気があるのを見て、「あそこに城を築こう」と考えたのが「江戸」という小さな港であった、というので、ここを「夢見ケ崎」と呼ぶようになったのである、ということじゃ。

2月11日(木)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

休日なので調査に出かける。

〇武蔵杉山城 ・・・ 武蔵嵐山所在、戦国期関東の傑作山城といわれる杉山城についに推参。なにしろ、歴史的に重要な事件があったわけでもなく、重要な人物がいたわけでもなく、新しい技術的発見があったというわけでもないのですが、城の縄張りの見事さで「国指定史跡」になってしまったというすごい城なんです。これだけの縄張りができるのは後北条だろうと思っていたら、発掘してみたら15世紀の築城で、関東管領上杉氏の誰か、初代城主と推定される杉山主水さんが造ったか、といわれています。

中世後期の地形防御の工夫が8ヘクタールほどの面積にひしめいている状態。山中にあって一個人家の所有だったこともあって、ほとんど開発されず、現在では整備もよく行き届いていて、肝冷斎のように毎日毎時睡魔に襲われている者の目も一気に覚めるような見事なアート・オブ・キャッスルである。

本郭。山頂部でもある。鎌倉街道が山すそを通っているのも見通せる。

こんなふうになっているんです。なお「現在地」は本郭ではなく、大手跡。

これは南二の郭から上がってきて、本郭方面を見たもの。

これは本郭から東二の郭を見下ろす。堀切が見事である。

南三の郭から南二の郭に入る小口。横矢がかかるように左手に土塁がある。

南二の郭から本郭に登る小口。行き違い小口という仕掛けになっている。

とにかく複雑な造りをしていて、途中の郭と郭の連結部には必ず何かの仕掛けがあるという面白さ。写真では伝わらないんですが、東二の郭から本郭に登るところの迫力とか、北郭の精巧さとか、北二の郭から本郭に入る小口の出来とか、城から移動するときに敵に使われないように井戸郭の水源を「切って」いるのがそのまま出てきた、とか、井戸郭の土塁から本郭周りの空堀に移動できるとか、効果的な竪堀とか、とにかく「ようしてのけたものよ」の一言に尽きるわい。

一回行ってみましょう。入場無料。私有地なので留意されたい。

〇天神山古墳群 ・・・ 円墳が10基ほど確認され、一つは石室も開放中。(写真を携帯に撮ってしまったんで、複雑な技術上の事情で、ここにアップできないんです。)

〇塩古墳群 ・・・ こちらは20以上の古墳が確認され、主墳の1号墳・2号墳は「前方後方墳」。すべて4世紀ごろの前期古墳とみられる。古墳が密集していて荘厳な雰囲気さえある。

記念碑の後ろは一号墳。

〇塩八幡神社 ・・・ 古墳から300メートルぐらい離れています。

なにげなしに鎮守してくれていてありがたい。

〇大日如来種字板碑 ・・・ 14世紀初頭の板碑で、嵐山町最大のもの。

真ん中の背の高いのがそれです。真言宗徒と初期日蓮宗徒の共同制作で、大日如来の種字と「南無妙法蓮華経」の七字がともに刻まれているのも珍しい。

2月13日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明日はまた午後会議なんで、今日は生き急ぐように現地調査。延喜式内社・古墳・中世城郭セットを制覇した。

〇国渭地祇神社 ・・・ 坂戸・西大家の駅の前にある森戸神社の中に、国渭地祇(くにいちぎ)神社があります。小さいけれどれっきとした式内社。

確かに周囲に対して比高地なので、古代には高麗川流域の湿地(国渭)のほとりの地盤を治める大地の神(地祇)だったのでしょう。

〇坂戸・大類古墳群 ・・・ 七世紀ごろ造成とされる数十の古墳が遺る。茂呂郡の古墳総数は数百といわれ、古墳王国の一たる埼玉県においても屈指の古墳地帯である。

この大類十社神社の社殿まわりにわさわさと円墳がある。

神社から少し離れたところに(このあたりでは)有名な大類一号墳(前方後円墳)。このあたりの地名を苦林といい、南北朝期に鎌倉公方と南朝方との間で苦林合戦が行われた。「太平記」に「小塚にかけのぼりて」とあるのがこの古墳のことであるという。墳頂には江戸時代に建てられた合戦での戦死者を祠る石祠がある。

こちらも(このあたりでは)有名な大類二号墳(一号・二号だけが前方後円墳)。こちらが有名なのは、いわゆる「積み石塚」という全体が石で覆われた造りになっているからである。

十社神社はたいへん佳いところでした。「神威示現」という貼り札があったが、まさに「神威」が現実に木々の間から降り注ぐ感じ。なんだか懐かしい感じの弁財天の像もあった。

土地と人の心の清らかなのがわかるではありませんか。

〇田波目城 ・・・ 16世紀初頭の関東管領の茂呂攻めのさいに「大かけ(がけ)田波目城」と名が出てくる山城です。そのとき守り切ったかどうかわからないのですが、山頂平坦部を利用した主郭があり、裏手は高麗川に向けて断崖になっていて(牛の沢という湿地あり)、高麗川水運を扼する要害の地であることは明らかである。

主郭部に建つ小学校のPTAが立ててくれた標識です。

城の裏側に建つ道標。「こんなやぶの中に?」と思うかも知れませんが、江戸期にはここに高麗川を渡す橋ないしは渡しがあり(藪の向こうは高麗川です)、「ひだり ちちふ みぎゑ もろくまがい」と書いてあるらしい。さらに裏には、もう摩滅していますが、

柚の葉の落ちる後までここにゐて ひとは笑へど道を教へん

という和歌が刻まれてあるという。「ゆずの葉」も落ちて、もう道路としての役割は他に「ゆず」ったが、今もまだ石だけは遺っているのだ。いにしえ人の心篤さを思うべし。

2月14日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東京都美術館へ。「吉田博展」を見に行く。美術展「だけ」は岡本全勝さんのお薦めにははずれがないと思われるので。

明治洋画界の主流に反発してアメリカに行った、というのはいいのですが、GHQとの距離がなあ・・・。作品はすごいです。いくつかの木版画は、かみさまが造ったのではないかと思いました。

今日は春が来たかと思うような天気でした。実際もう立春過ぎたので春なんですが。

国風盆栽展にも見入ってしまう。魅入られるひとも多いのでしょう。

2月20日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は都内で、と思ったが、明日が普段の日曜よりさらに会議が長くなるため、もう逃げ出すように県外へ。

熊谷の妻沼方面に来ました。

〇奈良之神社 ・・・ 延喜式内社。いろんな荒廃を経て、今は「鎮守の森」として実に穏やかな陽光の中にあった。

神宮寺に当たるお寺が裏にあり、お墓に歴代住職のすごいかっこいい宝篋印塔がある。これは一見の価値ありました。

〇横積塚古墳 ・・・ 奈良之神社から数百メートル、妻沼バイパスが後円部を掠める位置にあります。埴輪等から五世紀前半とされるが、埋葬施設は発見されていない。周囲は開発が進んでいたため確認できないが、古墳群であったろうと想定されている。

造ったのは、利根川河畔の湿地帯を開いたひとびとの首長なのであろう。

〇妻沼聖天院 ・・・ 12世紀、斎藤別当実盛の次男が開いた真言寺院。「妻沼の日光」といわれるかっこいい建物群と、妻沼の一部であろと思われる池があります。

山門の間から見える本殿は国宝だそうです。

斎藤実盛が鏡に写して白髪染めをしている銅像あり。左手の方のボタンを押すと小学唱歌「斎藤実盛」が流れる。

〇大我井神社 ・・・ ヤマトタケル尊が来たときにできた神社だそうです。

斎藤実盛館跡に比定されています。

〇妻沼(白髪)神社 ・・・ 延喜式内白髪神社を名乗っていますが・・・。

論社にもなってないみたいですね。ただし、ここは周囲に比べて微高地となっており、かつての湿地帯・妻沼の開拓神社ではないかと思われる。聖天さんのところにあった地図で「西向きで今も北東にある」といういい加減な記述の妻沼神社に当たるものであろう。南北朝時代の合戦地である。

〇男沼稲荷社 ・・・ 男沼は今は地名だけが残るが、妻沼が東に、男沼が西にあり、周辺には出來島などの地名も遺る。

男沼字内で、聖天さんのところの案内板では「南向き」とされていた男沼神社であろうと思われる。

〇別府氏館跡 ・・・ 11世紀、成田氏の一族・別府氏がここに土着し、16世紀まで居館を維持した。別府市は後北条に属したため、小田原攻めによって没落するが、その後もおそらくこの地に住んだのだと思われ、現在、ほぼ正方形の館跡、土塁・堀を持つ東別府神社境内となっている。

館跡南側の東別府神社の鳥居。館内には右手に曲がっていく形になっており、入れ違い虎口の形態をとっている。

西・東・北は、ほぼこの土塁と水堀が完形を保っており、中世居館の姿をよく遺しています。二重丸レベルの遺跡である。

本日も、式内社+古墳+中世遺跡に成功した!だが、明日は・・・。

2月21日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

13時にはオンライン会議に出ないといけない、というので、大忙しで、

〇国立公文書館企画展「最後の殿さま」を観覧。これはおもしろかった。日本中が舞台になっているので、誰が見ても面白いと思います。個人的には、一番最後まで生きていた「最後の殿さま」があの人だった、というのが大変興味深かった。さて、誰でしょう? 行けばわかりますよ。

今日はいい天気で、時間があれば皇居内散策できたのに。

どこからこんな資料見つけてくるんだろう、と疑問に思うぐらい、変なモノ見つけてきますね。

琉球藩の印、なんてはじめて見た。

これは非公開文書のようだ。

2月23日(火)天皇誕生日・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一般参賀も無いので、サボり日に。伊勢原に行ってみる。

〇三ノ宮比々多神社 ・・・ 相模三ノ宮。もちろん式内社。30年近く前、既死の友人と、ぶち壊した前代の縁故車とで来たことがあるが、もっとさびれた神社だった記憶があったのだが・・・。

有名な付属博物館(宝物館)があって、境内から出た縄文土器などが置かれていたので楽しみだったんですが、「コロナで」という理由で閉館中でした。

この神社の境内地は縄文中期の住居などの出た三ノ宮宮前遺跡として有名。また、近くの東名高速道路工事の時に出た遺跡(のうち、縄文期の環状列石(ストーンサークル)、敷石住居跡、古墳時代の三ノ宮3号墳)が移築されている。昭和42年の移築なので、かなり素朴といいますか、近代建築みたいになってしまっているのがご愛敬です。

中世以前、比々多神社は現在の境内地の裏手に約2万坪近い社有地を持っていたそうなんです。室町時代にどんどん取られた、と悔しそうに書いてありますが、ここは、もと社有地の一画、今はホテルか何かの廃墟の敷地になっている「埒免古墳」。「埒免」(らちめん)は国司や守護の不入(はいらず)を指す言葉ですから、このあたり一帯が社有地として世俗権力が入り込めなかったということが地名からも明らかになります。

「元神社地」から南の方、平塚方面を見渡す。江の島・房総も見えるそうです(今日は青空が広がっていたが、春霞で地平はくもっていた。)

〇松山古墳 ・・・ 比々多神社の裏から伯母上村に歩く途中にある円墳。

ここも見晴らしがよい。

〇伯母様村 ・・・ 北条48家の一、布施家の領地。特にこの村は布施なんとかさんの伯母上さまが領していたので、この村名がある(ちなみに宮城などに「小迫」(おばさま)地名があります)。伯母上さまの住した高岩院があるが、地図や紹介文では観音堂があることになっているのに、「高岩院跡」のかなり古くなった石碑だけだったのにはびっくりした。

〇心敬塚 ・・・ 連歌師・心敬がこの地に滞在して、江戸城に行ったりしているので、この山の上が「心敬塚」と呼ばれていた、ということで平成年間に石碑が立ちました。実際に住んでいたのはずっと麓の方らしい。

ここも見晴らしがいいんです。「比々多・高部屋上水道組合」の碑の建つ水源地の隣。左側の白いのが心敬塚。中央から右手にかけての台地状地形が湘南平だそうです。するとその先は相模灘である。

〇伊勢原大神宮 ・・・ 17世紀伊勢原を開いた人の中に伊勢山田の出身者がおり、鎮守として内宮・外宮を勧請したのが、「伊勢原」の地名の起こりとなった。現在も町中に大神宮がある。もとは普化宗寺院が神宮寺だったそうですが、明治4年普化宗は廃止になってしまった。

右手が外宮、左手が内宮。何度か建て替えはあるものの創建時代からこの二つが並ぶ特異な建物になっているそうです。なお、ここにはでかいネコがいて、寄ってきた。いいやつである。

〇道祖神等 ・・・ 伊勢原は道祖神の多い町であり、郊外にも多かった。

これは町中、坂戸バス停近くにある道祖神とポストくん。ポストくんは現役のようである。

2月28日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日は一日シゴトだったので調査ができなかった。今日は午後まではフリーなので「文句も言わずに寸暇を惜しんで」調査である。

〇多田神社 ・・・ 源頼家さまが前九年役のあと、武蔵三大宮の一、大宮八幡社を勧請した。その際、その雑事を掌らせる雑色の村を設け、そこに頼家さまのおやじの多田満仲を祀ったのがこの神社である。

長い間丸の内線沿線で暮らしてきましたが、方南町に降りたのは初めてであった。神田川・善福寺川周辺のアップダウン激しいので、このあたりは歩くと疲れますね。

〇大宮八幡宮 ・・・ こちらも初めてお邪魔しました。よいところですね。おみくじもいいこと教えてくれたし。

昭和47年頃の記録を見ると、このあたりもドンド火などやって田舎なのだが、今はかっこいい都会の神社です。

源義家さまの鞍掛の松(「もちろん代替わりしている」と書いてありました)。
〇大宮遺跡 ・・・ 大宮神社の善福寺川側にあり。都内で初めて、方形周溝墓が三基並んで出ました。

神社創建(11世紀)のはるか昔、弥生末の2世紀には、ここに祭祀遺跡があった証拠である。

〇大圓寺 ・・・ 永福町にある旧刹。真言宗。

開山は武田信玄の弟に当たる諦巌和尚で、江戸開府の直後ごろに溜池にあったそうですが、火事があったりしてここに移転。薩摩藩の江戸菩提寺のほか、五井氏など有力旗本が檀家にあり、でかいすごい墓がたくさんあります。

「戊辰薩藩戦死者の墓」。益満休之助もここに葬られているとのこと。題字は大勲位・侯爵・松方正義。

 

次へ

inserted by FC2 system