フィールドワーク録22−3 (起:令和3年3月6日(土))  目次へ  令和3年2月6日〜へ

やる気無しドウブツたちのように尻尾を巻いて逃げ出したいなあ。

3月6日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

↓は、不要不急なのにホントに行ったのかどうか、確信がありません。フィクションかも。

〇運玉森(雲玉森)(うんたま・むい) ・・・ 首里の弁ケ嶽から東に見える特徴的な山(米軍は「円錐丘」と呼んだ)です。小高い丘・山を「森」(もり・むい)と呼ぶのは、沖縄の特徴みたいなことをいうひとがいますが、薩摩の「むいどん」はもちろん、土佐や紀州もそうですから、やまとコトバ的には珍しくはありません。というより、「琉球王府」である熊野水軍が持ち込んだのではないか。

首里側から見た運玉森。もちろん聖地(御嶽)です。「琉球国由来記」巻十三「大里間切」に大見武村「オンタマノ嶽」及び、巻十四「西原間切」に安室村「オンタマノ嶽」とあるもの。南方が大見武の、西方が安室村の拝所で、ともに神名は「スズノ御イベ」である。なお、義賊・運玉義留(うんたまぎるー)の根拠地として名高い・・・んですが、運玉義留は昭和前期の「沖縄芝居」のヒーローとして作られたフィクションで全く虚構です。昭和前期の運玉義留は、17〜18世紀の王府時代の義賊で、盗みに入るときは予告をする、貴族や金持ちからしか盗まない、貧しい者に施しをする、最後は王府の兵士に攻められて死んだ(と思われる)、ということになっていた。本土復帰以降の創作では、明治初頭の義賊で、戦ったのは王府だけでなく大日本帝国だったことになったりもします。

なお、「義留」(ぎるー)は近世沖縄方言の表記で、やまとコトバの「じろう」です。あれ? 「次郎」のつく義賊(これも実際にはほぼ創作)がやまとにもいたなあ。

ちゅー!!

「うんたまのぎる」は、わたしども還暦前後の世代には、NHK人形劇「新八犬伝」に出てきたので、ご記憶のひとも多いのではないかと思う。だとすると、扇ガ谷定正と同時代の15世紀半ばのひと、第一尚氏前後という設定だったのか・・・。

東からの登り路は「ムリ」だというので、西からの道を登る。頂上まで行くと、うわさどおり変な太陽光による発電灯がありました。登山道の距離が短いのと、泥道はありますが琉球石灰岩むき出しの地帯は無いので何とかなると思いますが、かなり険しい道ですので、気を付けていきましょう。

与那原、知念半島、さらに久高島を見る。聞得大君アラ降りの道筋そのままである。

〇久葉堂(くばどう) ・・・ 与那原側に降りた与原の村にあります。@聞得大君の「武津見御嶽」遥拝所、A雲玉森の麓にあって山崩れで滅んだ村の慰霊所の2説あるんだそうです。B「琉球国旧記」巻六にいう「久場堂嶽」との関係はどうなのか。井戸や女神の骨がある、とのことだが・・・。

全滅集落の慰霊施設だとすると、種子島の祟り地信仰「がろー」に似る。

〇武津見御嶽(むつみうたき・むちんだき) ・・・ 久葉堂からさらに進んだ雲玉森の麓にあります。「琉球国由来記」巻十三与那原村「友盛ノ嶽御イベ」。ここから雲玉森に行くのが東ルートですが、ちょっと道がわかりづらい。

かなりセジ(霊力)の高そうな場所です。なお、ここも@聞得大君アラ降りの一環で拝まれた場所、A聞得大君Aが久高島に行く途中に遭難して薩摩に流れ着き、送還されたがそのときすでに身ごもっており、首里に戻るのをいやがって下記の御殿山に住んだ方のお墓(「遺老説伝」「琉球国由来記」による)。という2説あります。「武津見」は「睦み」であろうかと思うが・・・。

〇御殿山(うどんやま) ・・・ 与那原の港近くにあった祠。今は再興されている。「琉球国由来記」巻十三与那原村「浜ノ御殿」。神名は「アマオレツカサ」。

ここも@もとは首里の御殿を作るための木材置き場だったので御殿山という、A聞得大君アラ降り儀式の際の重要な宿営地、B上記の聞得大君Aが住んだ、C天女が降りてきたところ、といった各説があります。

・・・・・・ところで、国際通りの大画面で「首里城再建の歌」というのを流してました。首里城全焼事件については、沖縄消防局が「原因不明」という調査結果を発表していますが、「原因」や「責任」はともかく「失火のメカニズム」を確認しないと再建してもまた「失火」するじゃないですか、と思うのですが、沖縄の(世論を作るシゴトの)ひとには、言わないでおいた方がいいので言わないでおきます。

3月13日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かなりの雨で観タマできず、行くところ無くなったんで、上野に流浪いゆく。

〇上野の森美術館 ・・・ VOCA展をやっていました。

VOCA展は40歳以下の全国のアーティストの中から、各地のキュレーターや学芸員らが推薦する者が選ばれて「平面作品」を出展するもので、登竜門的な扱いらしいのですが、作者が若いせいだと思いますが、芸術的にはともかく世界観がどうも薄くて・・・。震災の後、知り合いが出展したので見に来たのが初めてですが、そのころは「物語性」というのがキーワードやったなあ。あっという間にそんなこと言わなくなりました。

〇国立博物館 ・・・ 東洋館へGO

暗い日は東洋館でミイラちゃんと会うのがお決まりなのさ。ミイラちゃんは数千年の年月を過ごしているわけだが、わしもミイラちゃんと修学旅行で出会ってから今年で45年? もうあのころの先生とかみんなあちらに行っているんだろうなあ。

最近のお気に入りは漢代のお墓から出てきたこの女の子。両手に旗のようなものを持って死者に仕えていた侍女らしいのですが、もじもじっとしているようにさえ見えて人気が高いらしい。

地下の東南アジアコーナーもすばらしい。これはいわゆる「父母像(ぶもぞう)」。男女神が抱き合う交接像である。

カンボジアから持ってきた「九曜像」。左から、日曜・月曜・火曜・水曜・木曜・金曜・土曜・羅喉羅・計都星。騎ってるモノも違って、一つ一つ見ているとオモシロい・・・のだが、だいたいここまでくると閉館間際である。

3月14日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用を果たしたあと、まだ陽があったので、京成線で行ってみた。

〇鷺沼城址公園 ・・・ 習志野市役所の近く、八剣台とよばれる舌状台地の先あたりにあります。

いい感じの断崖を登っていくと、↓のような台地に出ます。

城址であることを示すような遺構は特になし。土塁かと思ったものも「遊具」と「古墳(↓参照)」でした。

鷺沼満義・諸士の慰霊碑。昭和30年代に市長さんが題字を書いてくれています。鷺沼満義はその仲間たちとともに、里見氏に与力して北条氏康に敗死した、というようなことが裏に書いてあります。ちなみにこの碑の裏の茂みは祠があって、鷺沼一号墳(6世紀後半の前方後円墳)です。

〇鷺沼古墳群 ・・・ 八剣台に散在していたようですが、公園内にある1号墳・2号墳以外は住宅開発でほぼ消滅した模様。

コンクリートの建物は、2号墳(6世紀末、前方後円墳)の方形石棺の覆い屋。中には立派な石棺があります。男性が二体出た。左奥の方が↑でも触れている1号墳。こちらはハニワが出ている。

1号墳後円部の祠方面から、前方部の鳥居の方(さらに向こうは上記の鷺沼満義慰霊碑)を見る。鳥居が小さくてしかも歪んでいるので、小さな茂みだがたいへん神秘的でぞわぞわくる。今日は午後のシゴトが無くなったので、所用を果たし、しかも中世城址+古墳のセットを調査できた。人生、だんだん良くなってきているのだと思います。右手にあるような光の世界に近づいているのだ、と信じて、なおしばらくは闇を行くなり。

3月20日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・

今日の所用の後、よみうりランド近くの「ちょっと変わったところ」で(一部に)有名な

〇ありがた山 ・・・ へ行ってみた。ありがた山は、京王よみうりランド駅の近く、だいぶん前に行った「妙覚寺」(足利義晴開基)のさらに向こうの方の山肌にある墓地のことです。

一度は来たかったありがた山。山頂より見下ろすと、ずらりと墓石が並び、はるかに調布方面が見える。

ありがた山は、昭和初期から、ある宗教団体が都内近辺での区画整理や開発で遺棄されることになった古墓を引き取って保存してきた場所なんです。今日見て歩いただけでも、応安年間(1370年ごろの北朝側年号)の板碑や室町期と思われる宝篋印塔などがずらずらあった。このあたりの墓石も慶安やら元禄やらの古墓ばかりじゃった。

中腹にある薬師井戸。「飲んでもけっこうです」と書いてありましたが、ちょっと現代人にはツラいかも。ありがたや。「従三位薬師如来」さまなんですね。

春分の太陽が西の方に沈みゆく。何年か先には、わしもあちらの方に旅立っていくのだと思うと「ゆかしい」という気持ちが湧いてきます。なお、開発から古墓を守ってきたありがた山ですが、このありがた山自身が、今再開発されつつあるのである・・・。

3月27日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も所用のあと、日のあるうちに、と、すごい急ぎ足で府中・布田町の縄文遺跡2連発。

〇古天神遺跡 ・・・ 布多天神社の旧鎮座地とされます。縄文前期の1万年前の土器が出、中期の居住跡も出、さらに古墳時代、平安時代、室町期の墳墓なども出ているそうです。

地表面はただの公園でした。公園の向こう側にかけて下っており、ちょうど崖線のこちらが上部になっている。近くに角川大映撮影所があって、大魔神像が置かれていた。が、すごい急ぎ足だったので写真撮影せず。

〇下布田遺跡 ・・・ こちらは国指定遺跡です。縄文晩期の集合墓地が出た。どこかに古墳もあるそうなんですが、地表面からは全く察知できず。

ここから右手の方に埋蔵物センターもあるので、そこで情報を仕入れたいところですが、休館中。

3月28日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

午後の会議の前に疾風のように調査。

〇板橋区立美術館 ・・・ 「さまよえる絵筆 東京・京都戦時下の前衛画家たち」を観覧。別の企画展だと思って行ったのですが、おそらく練馬の区立美術館と間違ってしまったような気がします。とはいえ、おもしろかった。ある画家が戦時中ですが、東北や秩父に行って、わしのような「調査」をしていたのを見て微笑ましく、かつ勉強になった。

板橋の区立美術館は初めてきたと思います。

〇板橋区郷土歴史資料館 ・・・ ここは二十年ぶりぐらいに来ました。前回はもう死んだやつと来たなあ。

内部改装されていて、手短かだが見ごたえありました。以前は高島秋帆の話が多かった記憶。今は1コーナーになっていた。高島団地、都営地下鉄線など現代史の紹介はおもしろい。団地が出来て、東武線が来るはずが来なくなったので、蓮沼までだった都営地下鉄を九十度折り曲げて西高島台まで持ってきたんだそうです。

狭い範囲ですが、企画展「石田収蔵」コーナー。石田は明治・秋田角館出身の人類学者で、板橋に住んだ。五次にわたる樺太アイヌの探査で名高い(そうです)。

受付横に「特別展示」されていた大正期の「硝子雛」。ひな壇の下に電球を入れて、おひなたちを光らせることができた。手作り感あって感動する。

〇赤塚城跡 ・・・ 15世紀〜16世紀の千葉氏の本拠地である。菩提寺は松月院。

縄張りそのものははっきりしなくなっているんですが、資料館裏の舌状台地の先端が本丸と推定され、碑が建っています。舌状台地の奥の方に二の丸があったとされ、それが現在の東京大仏のあたりであるとのこと。

〇不動滝 ・・・ 板橋台地が徳丸原(高島平)に突き出しているこのあたりは、崖線に沿って滝が多くあったそうです。この(今では)細々とした滝には、今も二体の不動尊が祀られている。

九月に例祭があって、お札もらえるみたいです。

さてさて今年も花の盛りに逢いました。毎年この時期はこの呪文を唱えています。

「サクラバナチリカヒクモレオイラクノコムトイフナルミチマガフガニ」

赤塚城址公園。花見自粛でほとんど誰もいないので、不気味でさえある。

 

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