フィールドワーク録22−4 (起:令和3年4月3日(土))  目次へ  令和3年2月6日〜へ

ありがた山はありがたかった。

4月3日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も所用のあと、船橋駅から西船橋駅まで歩く。

〇式内元社入日神社 ・・・ 「しきうちもとしゃ・いりひ」神社です。船橋大神宮・意富比神社の元社の地である、という(大神宮側の記録にはないようですが)。祭神はアマテラス女神とヤマトタケル。古代、このあたりは海岸線で、ヤマトタケルさまが上陸したのだということだ。

こじんまりとした社地ですが、たいへん気品のある神社です。

〇大覚院 ・・・ 真言宗のお寺です。

「あかもんのおてら」と書かれていました。4月8日は花まつりだが、平日だからおまつりに行けません。

〇山野浅間神社 ・・・ 奈良平安の昔よりここに鎮座しているという。千葉街道沿いの台地にあるので、晴れると富士山が見えそうです。

嘉永年間に「山野おどり」で有名になったとのこと。

なんかいいことあるかも知れないような入日だが・・・。

明日も仕事だ。以前は日曜日の夕方に感じた悲哀感を土曜日に感じるこの頃だ。もういい年なのじゃがのう。

4月4日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日曜日は毎週午後がオンライン会議なんで、午前中に疾風のように調査する。

〇練馬区立美術館 ・・・ 初めて、のつもりで行ったんですが、何年か前に行って、閉館中だった記憶が湧いてきました。何年前かは覚えてないんです。

これが練馬区のキャラクターみたいなものらしい。奥が美術館。

先週見にこようとして板橋区立美術館に行ってしまった「電線絵画展」を観に来ました。この絵画展は、電線・架線・電信線の違いを明らかにするなど、半ば博物的であったこともあり、また展示作品数もかなり多く、それぞれの画家の解説もしっかりしていて、たいへん見ごたえがありました。

4月10日(土) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用の後は、調査がはかどるぜ。

〇武蔵松山城 ・・・ 30年ぶりぐらいで調査だ。記憶にある城址より、だいぶんきれいになっていました。南北朝期に新田義貞、戦国期には太田氏の居城から、北条、武田、上杉の三者の激戦地としてあまりにも名高い名城です。膨大な豊臣軍の前に陥落。1601年に廃城になったよし。

本曲輪跡。むかしは山の中の草藪だったはず。

二の曲輪跡。こんなところ入れもしなかった。

二の曲輪から空堀に降りて本曲輪にあがる虎口。むかしはこんなところ歩いたらマムシ数匹にやられていたかも。

〇岩屋観音 ・・・ 九世紀の創建と伝えられる。中世には歴代松山城主の信仰が篤かった。

昔来ているはずなのに、まったく記憶がありません。素通りしたのかも。

うわーい、これはありがたい。なお、ハート型胎内くぐりもくぐりました。おそらくこれからいいことあるはず。

〇吉見百穴 ・・・ 16時30分までしか入れないのに16時29分だったので断念しました。二度は来てるはずなんですが、記憶がごちゃごちゃになっています。売店でうまいもの食ったような無いような。

ここにコロポックルたちが住んでいたのだなあ。

「今でも住んでいるでポックル」

〇松山城址下の当選院さまにお詣りしてきました。こちらでも、おそらく、いいことあるはず。どんないいことがあるか、楽しみだなあ。

右上が当選院の観世音堂。ほかに虚空蔵菩薩堂などあり。「承理・勝利」だ!

4月11日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は日曜日ながらオンライン会議から解放されたため、所用の後、調査する。

〇平塚市立美術館 ・・・ 展示替えのため入場できません。

エントランスにいたユニコーン。いいやつらっぽい。

〇平塚市立博物館 ・・・ エントランス展示は「鎌倉殿の13人」に向けて、「吾妻鏡」と現地写真、地図の比較。見ごたえあり。特別展は「火球と隕石」。これはすばらしかった。

なぜ「流星音」は流星の光と同時に聞こえるのか? 

ずいぶん久しぶりに「スーパージェッターの乗る流星号」というコトバを見た。流星号のスピードはマッハ15だが実際の流星のスピードは?

〇平塚八幡 ・・・ 誰もいなくて静かでした。

今日は正殿裏の太子堂にお詣りした。建築業者の守り神ということで、「柱」が建っている。

〇平塚宿 ・・・ 金目川の向こうまで行くと何かあるかも。

江戸側の見附(監視所)です。現在の平塚駅前より西側になります。左を通る道路は東海道で、この向こうの方に宿場があった。

博物館のジオラマによればこんな感じだったはず。

来週の週末は、どうなっているのだろうか。シアワセになりたいのだが・・・。

4月24日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんとか活動しております。

〇午前中は、国立公文書館へ。

春の特別展「高度成長と東京オリンピック」を見に行きました。ほんとは明日行こうと思っていたんですが、明日から緊急事態宣言で中断してしまうというので、今日往訪したのである。

北の丸公園にはつつじが咲いて、いい季節なのだが・・・。

いつもながら、「なんでそんなもの見つけてこれるのか」というようなレアーなものがたくさん見れます。東京都提供の「文化スライド」も面白かったなあ。

これなんか、「日本行政文書遺産」とでも言いたくなるようなすごい数のハンコの決裁書。首都高速の計画案だそうです。

〇その後所用を果たした後、市川大野の駒形神社へ。

経津主神と、鎌倉権五郎に託した平将門を祀る。

境内の裏や付近に、

多数の「馬頭観音」が祀られています。江戸後期から大正年間まで、毎年毎年石碑を建てていたようだ。また「鮮牛」さまの碑もあります。実に不思議な空間。果樹園と道路に開発される前はどんな景観だったのだろうか・・・。

4月29日(木)昭和の日・・・・・・・・・・・・・・・・

県境を越えることはないのでマボロシであろうと思われるが、平塚球場雨天中止のため、

〇平塚市立美術館 ・・・ 先々週行ったら閉まっていたところです。

川瀬巴水展と柳原義達展をやっていました。川瀬巴水の版画制作記録映画を上映していて、亡くなってすぐのだと思うのですが、朗読や挿入歌がすごかった。昭和(30年代)はあまりにも遠くなりにけり。彫刻家柳原義達については、出征のために駅に行ったところで玉音放送を聞いて、人生観が変わってしまったという。

〇平塚宿から大磯宿へ ・・・ 雨の中歩いてみる。

金目川を渡って、三十七年ぶりぐらいに大磯町へ。あの山はどこかで見たような・・・。

これですね。高麗山。相模湾を東航してきたときに目印になる不思議な形の山である。最終的には埼玉の高麗郡に入植する亡命百済びと高麗若光が、最初に上陸した関東の地が、この大磯高麗であったという。

ここに古代より渡来系の高麗寺があり、天台宗で天海僧正が東照宮の分霊を持ってきたらしく、東海道を通る参勤大名が必ず駕籠を降りて礼拝していかねばならぬ定めであったのじゃ。明治の廃仏毀釈で高来(たかく)神社となる。

かなり風雨が強いのと、もう十七時を回っていたので止めておこうと思ったのですが、三十七年前にも登ったので、ついふらふらと高麗山に登ってしまう。彼方に相模灘が見える。

果たしてこんなところだっただろうか。

高麗山頂。奥の院に当たる「大堂跡」。

高麗山城の空堀跡。

ここから元毘沙門堂のあった八俵山頂に行き、そこから湘南台まで出れば何か思い出すかも・・・と思ったのだが、山道に何やら蠢くものが・・・「ブタではないのでぶー」

←こいつでした。

二十メートルぐらい離れていたので、お互いに目礼を交わして、踵を返して戻ってきた。山神をお騒がせしたとしたら申し訳ないです。

〇釜口古墳 ・・・ 大磯宿から高麗山・八俵山の方に少し登ったところにあります。

金網の中、地面すれすれに横穴の上端が見えています。江戸時代後期にはすでに開口しており、墳形は不明だが、周辺にあるいくつかの横穴墓の盟主的存在、と案内板に書いてありました。

山側から見下ろすと、右側に上の写真の金網が見え、左手には相模湾、馬入川が見える。この沖合を航海する者たちから、遥かに見えるランドマークとしてつくられた古墳であろうと思われます。かつては日の光に燦然と輝く葺石などに覆われて、高麗若光たちの一行も振り仰いだに違いない。

来週の連休はどこに行こうかなー。県境を越えることはないので、どこに行ってもマボロシであろうと思われますが。

5月3日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日一昨日は戸田でネココロニーを慰問。今日はまたまた平塚で所用のあと、調査。

〇中原御殿 ・・・ 東京から川崎・横浜を貫く中原街道の終着点。16世紀末から17世紀前半にかけて、徳川さま(最初はまだ将軍ではない時代)の鷹狩り場があり、江戸からここまでお見えになっていたので、宿泊所・雲雀野御殿が設けられていたのである。

小学校の一画に記念碑だけ建っています。今では何もないが、発掘調査では堀が発見されている。

16世紀天正年間開山の善徳寺山門は、元雲雀野御殿裏門という伝承があるそうです。

〇八雲神社 ・・・ 八雲神社古墳跡地。

平塚城址の近くにある八雲神社。この常夜灯は幕末の飢饉の際に代官の伊豆・江川太郎左衛門に年貢の減免を願ったところ、むしろ半枚を届けられ、「年貢を納めた後、乞食せよ」とのお達しであった。「あんまりである」と再度減免を願ったところ、免租をかち得たので、それ以来、太郎左衛門への感謝のために常夜灯を灯したという。

〇成器塾跡 ・・・ 幕末から明治初にかけて、平塚周辺の青年を集めた漢学塾である。

特に解説には無いのですが、おそらく「易・繫辞上伝」の

立成器以為天下利。

器を立成して以て天下の利と為す。(一流では無いけれど、役に立つモノ(人材)を作って、天下の利益にしよう)

に基づくものと思われます。

〇このあとまた大磯に入り、高麗山ジゴク沢を経て、善福寺横穴墓群。

コロポックルよりもう少し大きくても暮らせるかも。

↓なお、調査途上でこんないいところ見つけました。

平塚城址近くの達上ケ池です。

5月5日(水)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は電車代節約のため、所用の後の雨の中、桜上水から丸の内線まで歩いてみます。

〇済美台遺跡 ・・・ 善福寺川湾曲部に突き出た舌状台地が済美台で、縄文から古墳時代にかけての住居跡などが出ているそうです。

台地上にあって暮らしやすく敵からも護りやすく、善福寺川辺は程よく湿地、だったので、いずれの時代にも住居とされるに適していたんだそうですよ。

〇堀の内妙法寺 ・・・ 日蓮宗。厄除けに江戸庶民の信仰を得(ちょうど日帰りのいい行楽地だったんだろと思います)、十一代家斉さまが鷹狩りに来て、お茶を飲みに来ておられたそうです。

家斉さまは将軍さまの中で一番「よくわかった人」であったという。「大奥」はいろいろ厳しいところだったそうですが、その中で50人子どもがいただけでニンゲン関係の上手な大した人であることは推測できる。

江戸庶民参詣の「妙法寺道」沿いには和田の帝釈天さまもあります。

5月6日(木)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

県境の外へ行ったまぼろしを見た。平日ですから現実体は社会に束縛されているはずなので、まぼろしであるのは確実。

〇山田城 ・・・ 森林公園に中にあります。行田の忍城の出城に当たる単郭式の城ですが、16世紀末、秀吉小田原攻めの際、前田利家公の前に落城。

さすがにいくさ上手の前田侯の前には、一日もたずに落城したとのこと。

二重土塁が印象的。これは北側の虎口付近。

森林公園の中には「古鎌倉街道」が通っており、他にも中世の城址があります。

〇伊古乃速玉神社 ・・・ 延喜式内社。武内宿祢を祠る。武内は蘇我氏の一派なので、このあたりが蘇我氏の開発に係るのでしょう。

江戸時代にこの地に移転したとのこと。社宝に勝海舟筆の幟ありとのこと。

神木ハラミ松(おそらく右側の枯れかけたやつ)。何がハラミ松なのか、よくわかりませんが、樹皮がめくれていて、中にもう一本入っているように見えるから、かも知れません。

こちらが現在の「奥宮」で、移転前の社地。社地にある展望台から、都心も見えた。こちらがマボロシなのに、向こうがマボロシに見えるから不思議だなあ。

マボロシの空を念写してみました。平日の空も青いんだなあ。

5月9日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用のあと、調査する。

〇中久喜城跡 ・・・ 中世小山氏の支城の一。結城と小山を結ぶ結城街道沿いの交通の要衝にあり、本曲輪のほか東・南の曲輪が確認されている。掘割をめぐらした平城である。家康二男の秀康が当主になったあとの結城氏の隠居城に当てられていたが、結城氏の越前転封で廃城となる。

本曲輪北西隅(写真の茂み)の土塁と掘割が見事に遺る。他の曲輪も掘割等明確に確認できるそうですが、交通の要衝にありすぎて、JR水戸線によって南北に分断されています。

本曲輪土塁。上の茂みの中身です。この先は水戸線の線路になっています。昭和55年に「小山氏城郭群」として国指定史跡に指定。駐車場等の整備は進んでいない模様。

〇愛宕山古墳 ・・・ 中久喜城から結城街道を小山駅まで歩く途中にありました。昭和32年に小山市指定の円墳。墳頂に愛宕神社が祀られています。

ただし、発掘がなされておらず棺等の確認が無いこと、周囲に古墳群の形成がないこと、墳形があまりにもはっきりしすぎていることから、これは古墳ではないと思います。

近世の愛宕信仰に基づく「富士塚」でしょう。たいへん興味を惹く遺跡です。ただ、昭和30年代には、「古墳」認定しないと、近世の信仰施設では神社施設を保護できなかったんだと思います。

5月15日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用の後、菅越えをして、生田緑地へ。

〇菅越え ・・・ 鎌倉〜南北朝期の幹線道で、八度の合戦が行われたという。

卵塔場あたり。古戦場で、昭和10年ごろまで祟り地とみなされていたようである。

〇生田長者穴遺跡 ・・・ 桝形展望台公園の東の入り口付近にある。7世紀の横穴墓で、3つの谷に30穴ぐらい発見されており、人骨、副葬の金石器が発掘されている。

看板の左下の方にも一穴あるが、コロポックルより大きい。

〇桝形城址 ・・・ 鎌倉期に稲毛氏の居城であった。五反田川、鎌倉街道を見下ろし、四方を断崖に囲まれた要害の地である。

平坦地の周りが断崖で、掘割のあとも認められる。なお、展望台が設けられているが、コロナにより立ち入り禁止中である。

公園の隅っこに「桝形城址」の碑が建つ。隣には「川崎学童疎開40年記念像」がありました。

〇戸隠社跡 ・・・ 昭和初期に東京都下から移転してきた戸隠神社に、長野からもたらされた童子像などが祀られていたが、平成五年に失火により灰燼に帰したそうです。その跡地。

桝形公園(城址)の麓にあります。夜中はヤバそうなところである。

〇榎本の庚申塔 ・・・ 明治3年建立。五反田川と津久井道の交差するあたりに建っています。

地元の富士講(「現在の丸山教」と書いてありました)の人たちが建てたもの。建立者たちの名前が彫られているが、みんな苗字がある。

5月16日(日)・・・・・・・・・・・・・・

今日は所用のあと、オンライン会議中で会議終了まで電車に乗れないので、昨日見過ごした

〇菅古墳を探索。

森の中なんで心地よかったですわー。もちろん、古い墓碑みたいなのが立つなど夜来なければならなくなったら、一晩で白髪になるぐらいの恐怖であろう。

5月22日(土)・・・・・・・・・・・・・・・

今日も所用のあと、よみうりランドの裏側にある仙谷山寿福寺に参詣。創建年代不明ながら、所蔵する国一禅師像の国一禅師は鎌倉末期のひと。鎌倉街道を扼する小沢城の搦手に当たり、南北朝期に周辺の菅峠で数次にわたって合戦があったというので、中世早い段階の建長寺系の寺院なのであろう。

境内ふらふらしているうちに17時の鐘とともに山門が閉じられてしまったが、御住職にお許しをいただいて脇門から出していただいた。そうでなければ今ごろまだこの山中をさまよっていたのかも。

5月23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は、所用のあと、

〇菅の薬師堂

今は住宅地にありますが、昔はコワい山中だったと思います。

を経て、東生田緑地に入りました。

〇根岸稲荷 ・・・ 静かな林の中にあります。富士山も見えるらしいです。

〇根岸古墳群 ・・・ 竹林の中の尾根上に、5つの古墳が遺る。といっても、しろうとにも判明するのは二つぐらいです。なお、竹林は私有地で立ち入り禁止のため、遊歩道から見学する。

これが4号墳ぐらいでしょうか。2〜4号墳が西側、尾根の東側に5号墳があるそうです。

写真やコトバで伝えづらいのですが、静謐ですばらしい竹林でした。生田根岸の森保存会のひとたちが整備しているそうです。ありがとうございます。

5月29日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は所用の後、平塚市内真土(しんど)方面へ。明治初年に地租改正に憤った民衆によって戸長が殺害された真土事件の舞台である。(・・・が、その遺跡は見当たらなかった。)

〇古代東海道宿駅跡 ・・・ 東中原遺跡。

赤線と赤線の間を古代東海道が通っていたそうです。

〇真土神社 ・・・ 周辺より少し高い台地になっており、中世の真土城跡だそうです。

明治43年に周辺の神社を多数合祀したよし。

〇真土大塚古墳(記念構築物) ・・・ 真土大塚古墳は四世紀前半の、相模最古とされる古墳で、寒川神社を祀った一族の首長の最初の墳墓であろうと推測されています。ただし、この構築物の南側百メートルぐらいのところにあったとのことで、現在は住宅地になって滅失。

滅失前から既に墳型や規模もわからなくなっており、この構築物は当時の地形をそのまま寫したもの、だそうです。

〇四ノ宮前鳥神社 ・・・ 真土大塚古墳から一キロほど相模川に近づいたところにありますが、こちらは古墳被葬者とは直接関係はない模様。京都とここにしか無いウジノイラツコを祠る神社で、古代東海道とも近く、王朝直属だったのでしょう。

今を去る二十年前に来たことがあります。そのお礼参りに来なければ、と思っていたが、やっと来ました。

〇北向観音堂 ・・・ 四宮から平塚宿方面に向かう間にあります。伝・聖徳太子製作という観音像を祠る。

明治43年まではここに日枝神社もあったそうですが、神社合祀運動により前鳥神社に合祀されたとのこと。

〇江戸の崎慰霊塔 ・・・ 文化時代の名力士・江戸の崎(最高位関脇、現役中に死亡)の死後建てられたもの。この地(相模国大住郡)の出身で、最初の四股名は「大隅」といったそうです。

全盛期の雷電為右衛門に「最後の土」をつけた力士として、相撲史に名高い。(「全盛期の岩田鉄五郎からヒットを打った男」みたいな言い方ですね。)

今日はある人が亡くなったことを教えてもらいました。直接会ったことはないのですが、一度ぐらい会ってみたかった気もします。

5月30日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・

所用のあと、今週はオンライン会議無し。ただし雨がそこそこ強かった。

〇大宮氷川神社 ・・・ 武蔵国一宮。おそらく見沼(今は開墾されているが)のほとりにあった開発神であろう。現世利益をお願いしてみます。

おみくじの教えもありがたや。

〇見沼代用水 ・・・ 近世初期、見沼の湿地を開墾。農業用水を流したのである。

行田から荒川まで流れる。

〇寿能城跡 ・・・ 岩槻城・太田氏の支城。

小田原攻めで落城、廃城となる。真ん中に立っている碑は城主の潮田さまの墓標である。

〇大和田陣屋跡 ・・・ 大和田台地に中世末に存在。陣屋跡は住宅化していて碑もないし、なかなか近寄りがたいふいんき。

「三十年ぐらい前の情報では土塁のあとがある」とのネット情報があったので、驟雨と雷光のもと、付近を捜してみた。もしまだ遺っているとすると、これであろうか。

〇大和田の庚申塔 ・・・ 近世大和田村の遺物。

東へ一里も行けばもう岩槻である。

次へ

inserted by FC2 system