フィールドワーク録22−5 (起:令和3年6月5日(土))  目次へ  令和3年4月3日〜へ

ユニコーンでこん。

6月5日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・

所用のあと、今日は調査なしの予定だったが、地下鉄までの途中でこんなもの見つけました。

〇西迎寺阿弥陀如来坐像 ・・・ 17世紀の鋳物だそうです。

穏やかなお顔でいらせられる。17世紀終わりごろの名作であるとのこと。

6月6日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用を果たし、北上尾を調査。

〇上平公園 ・・・ 上尾市民球場もあります。

そぞろ歩きの森。そんなに広くないんですが、森の外が見えないので、八幡の藪知らず的に方向感覚が無くなります。不思議な空間。

〇北菅谷城跡 ・・・ 江戸末期の「新編武蔵国風土記」に館跡あり、と記載されているそうですが、当時すでに謂われを失っていて、誰がいつごろ作ったのかは分からない。下の少林寺あたりと関係はありそうです。

土塁跡と伝えられる。

〇少林寺 ・・・ 13世紀後半、執権北条時宗の北の方が建立と伝えられる円覚寺末寺。

江戸末期の火事のため、地蔵堂などの伽藍は消失したということですが、17世紀初頭のこのかっこいい山門は火災を免れたもの。付近は門前町の名が遺る。

6月27日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

静岡で所用があったので、ついでに調査。

〇長沼古城跡 ・・・ 築城者等不明。

この石段上の観音像あたりが城跡に比定されているようです。戦時中に忠霊塔を建てるべく整地したが、終戦になったため、慰霊観音が建てられたとのこと。周囲はお寺とお墓の集積地。

この長沼古城跡の「花園観音山」から下りて、西にある愛宕山に登って、音羽町まで縦走する。もし地元で土地勘にある人が聞いたら、夕刻、雨のあとに一時間程度で縦走した肝冷斎の能力と胆力に驚倒する可能性さえある行動である。

〇愛宕山城跡 ・・・ 駿府城の支城で16世紀に造られた山城であるとのこと。縄張り等見るべきものがありました。おそらく明治初年に徳川藩の手が入っているように思います。

詰め曲輪には愛宕神社があり、古代からの霊域だと書かれていました。

大手から二の曲輪に登る場所(虎口)にある桃山期の小堀流の灯篭。笠が丸い。

このあと、大手の方には降りずに、古墳公園の方へ縦断する。

〇谷津山古墳 ・・・ 駿河地方最古・最大の墳長110メートルの前方後円墳。

前方部から後円部を望む。木立の中には祠と鳥居があります。

駿河湾が近い。航行する船に「見せる」古墳であったのであろう。向こう側に見える山は八幡山古墳のある八幡山。その向こうに登呂遺跡があります。

〇清水山古墳 ・・・ 谷津山と同じ尾根筋にあります。円墳らしい。

石碑には「護山神」と刻まれています。

〇清水山公園 ・・・ 古墳のある尾根から降りてきたところ。もとここには茶業のための溜池が造られていたそうです(今は地下に防火用水がある)。

公園内にあった。NHKが全国に建てたという「ラジオ塔」の現存する一つ。JOPKは静岡放送のコードだそうです。

今回の縦走路は、UFO出現のウワサもある霊域だそうで、とにかく空気がきれいです。静岡すばらしい。

陽が沈む。あの太陽が次に東の空に出るときは、もう平日だ・・・。

7月3日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

梅雨末期豪雨で所用がはかどらないため、小弓御所調査を行った。

〇小弓城跡(小弓御所) ・・・ 15世紀に千葉氏の一派・原氏が築城。里見と対峙したが、16世紀初頭に里見に奪われて、小弓公方がやってきて、小弓御所となります。

字・古城台のお墓の中にある城跡碑。周りの道や谷が曲輪の縄張りを遺すものか否かもよくわからない。周辺には八釼神社や出羽三山の行人塚があります。

奥の高まりが「土塁跡」だということだが。

城地の東側を扼したと思われる「大百池」(おおどいけ)。江戸時代の村地図には描かれているのですが・・・。

この畔に「馬頭観音さま」のお堂があって、お寺が「危険ですから立ち入らないでください」という看板を出していたのでこわかった。が、おそらくお堂のまわりの石垣のことだと思います・・・いや、そうに違いないっ。

〇大覚寺山古墳 ・・・ 墳長60メートル余。四世紀後半の千葉市内最大最古の前方後円墳。

未発掘だそうです。北から生実(おゆみ)台地が伸びてきて、ちょうど切れ目になる舌状地に作られています。東京湾からはさすがに見えないか。

〇生実神社 ・・・ もとは御霊神社。旗本森下家の陣屋に隣接。

 

 

 

 

 

昭和30〜40年代に、九州、北海道、八丈島、四国、さらに「世界一周」の旅に出てきたひとたちの「記念」の石碑があってたいへん興味深い。

上の写真の左手に当たるあたりにある北小弓城の空堀跡。薬研堀でかなり深い。ここから左手が森下陣屋であり、北小弓城の二の曲輪であったという。

〇北小弓城跡 ・・・ 小弓城を追われた原氏が、16世紀半ばには後北条と組んで小弓城を取り返し、旧小弓城より千葉氏本拠に近い地に北小弓城を築いて拠った。

本曲輪あとの公園です。原氏は、小田原攻めの際、徳川の酒井忠次と激戦を繰り広げてついに落城した。

〇おまけ ・・・ 小弓城跡の一部である八釼神社の社額。あまりにすばらしいので写真撮ってきました。

菊間宮司 平為胤 という人が書いているようです。

7月4日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も昼の所用が中止となったので、国立公文書館に行ってみた。

「文書管理の歴史を紐解く」という企画展開催中。律令以降江戸幕府までの文書管理システムとその担い手を紹介して、マニア的にはオモシロいのですが、明治以降と、何より「ニセモノ」や「管理の失敗」の方が見たいんだがなあ。

わーい、重要文化財「御書物方日記」だ! ほかにも重要文化財が三点ぐらい出てました。虫干しの季節か。

そのあと、サクラに行ってみました。

〇佐倉市立美術館 ・・・ 佐倉に関わる美術家の作品を集めているそうです。渋いのもあります。「少年ケニア」とか。

佐倉出身の浅井忠。明治洋画壇を作り上げた一人である。

〇麻賀多神社 ・・・ 佐倉鎮守。麻賀多神社は式内社ですが、佐倉市内のはそこから持ってきたやつだと思います。

境内には、@戊辰(幕府方)A戊辰(新政府側)及び日清B日露の三戦役の戦死者を祠る慰霊碑が、代々の堀田侯の揮毫で建てられていた。

おみくじ引いたら無茶苦茶よかった。ようし、もう少しだ! 児玉源太郎(連隊長)邸跡には行きましたが、歴史民俗博物館や藩校資料館は諦めて、夜の所用に向かう。

7月11日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あちー。今日は昼間はよい所用がないので、富士に登りに行ってみた。

〇成子天神 ・・・ 西新宿にある神社。菅原道真の元下人の二人が開いたという。

この西新宿・成子の地は、江戸時代初頭は春日局の領地だったそうで、甜瓜(成子瓜)の産地として名高かったそうです。

ここに、都内屈指の富士塚があるというので行ってみた。

意外と高い。鉄鎖を伝わって登らないと危険なぐらい。コノハナサクヤが祀られている。

そのあと、乃木坂の

〇新国立美術館へ。「1945―2020ファッションいんジャパン」を観察した。

「ボンジュールはファッションに興味があるのかね?」とフランスなまりで訊かれるのもイヤではありますが、社会史家としてはたいへん参考になる。「変な服装(服妖)は社会的混乱の予兆じゃよ。モードの変化に注意するのは賢者の務めの一つではありませんかな」といにしえの賢者さまも言ってますよ(「晋書」)。

今回も1945からと云いながら、モガとかモンペから始まり、戦時の国民服やモンペの着用が、和装から洋装への本格的な変化をもたらしたということを知ることができたし、20世紀おわりごろから風船みたいなわけのわからん服も着ている人がいるらしいことがわかった。

このあと、オンライン会議に出ているうちに激しい雷雨となり、夜の所用中止に。

7月17日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あちー。所用を終えて調査を実施。

〇宗我神社 ・・・ 京都の蘇我神社を11世紀初頭に勧請したものという。旧曽我郷総鎮守。肝冷斎は25年振りぐらいに来ました。あのときは冬だったなあ。

縄文遺跡でもあります。台型土器というのが出土している。

〇法林寺 ・・・ 曽我神社の神宮寺を継承して、平安時代の薬師三尊像などがあるそうです。

薬師三尊は、背後の薬師堂に納められているそうです。この宝篋印塔は、江戸時代に木食上人さまをお祀りしたものという。

〇曽我城跡 ・・・ 曽我氏は曽我兄弟の敵討ちで滅亡したわけではなく、16世紀半ば、北条氏に一度服属した後裏切ったとされて、氏康代に落城、一族500人ぐらい自決して滅亡したんです。

暗くなってしまいましたが、左端の「曽我氏館址」の碑の向こう側が館跡比定地。「新編武蔵国風土記」ではこのあたりが館跡らしいんですが、昭和年間の発掘では土塁等の遺構は出ていないとのことです。中央右寄りに曽我兄弟敵討ち800年祭に当たって作られた曽我一族慰霊観音堂があり、その裏側の茂みは「物見塚古墳」。七世紀のもので、石室があるそうです。

〇城前寺 ・・・ 上の城跡から少し下ったところにあります。中世曾我氏菩提寺。江戸時代の一時期、忠臣蔵の一人の子どもが住職していたそうです。

寺内にある曾我氏のお墓。左の方が曽我兄弟のお墓で、右手の方にはその義父のお墓があります。

この左側には、幼い曽我兄弟の銅像もあります。

お寺の門前から見下ろす足柄平野。ずっと向こうは小田原と箱根山の外輪山です。このあたりも縄文遺跡とのこと。

ここから国府津まで歩こうと思って、三島神社あたりまで行ったが、熱中症化してきたので戻って下曽我駅へ。さて、熱中症的なのが治まったら、明日はどこを彷徨うのであろうか。

 

7月18日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

遠いところへ所用となった。滅多に来ないところなので、調査する。

〇石船神社 ・・・ 延喜式内。天鳥舟を祠る。境内に義家伝説あり。たいへん神さびた神社なので、夏休みに行くとこないけど車はある、というひとは行ってみるといいと思います。

清浄な空気である。やぶ蚊が多いが。

境内を流れる岩船川を石橋で渡ると拝殿がある。

船石。舟形になった岩に水が溜まっている。この水を混ぜるとどんな泉の水も涸れることがないそうです(日本の民俗「茨城」による。ただし昭和47年頃の本なので今ではダメかも知れません。)

二股に分かれた杉に、さらに巨大な葛がまとわりつく恐るべき神木である。なお、拝殿裏に神体石である「兜石」があって、覗き見れます。実に興味深い模様があるが、写真載せると霊的にまずいかも知れないのでやめておきます。

このへんが旧神田とのこと。ほかに義家矢の根石とか義家馬のひずめ迹石もある。

〇静神社 ・・・ 延喜式内。常陸国二宮。一宮鹿島、下総の香取と合わせて、東国三守護ともいわれる(そうです)。倭文(しづ)神は、もともと服部(はとりべ)の神であるが、久慈川の支流で、七玉川(歌枕とされた全国の七つの玉川)の一、常陸玉川水系の開発を指導したのであろう。

石段を登りつくすとやっと神門。額には「静大神宮」とある。詩織(しずおり)姫さまの像もあった。

裏山が神体山になっているようです。途中の山道に末社・接手足尾(つぐてあしお)神社あり。不思議なビニール袋がたくさん奉納されており、何やら名状しがたいものが入っていて不気味感があったが、つらつら考えるに骨折した人が持ってきたギプス類ではないかと思います。ピノコの失敗作も入っているカモ!

三十六歌仙絵馬があるそうです。

〇権現塚古墳 ・・・ 五世紀の前方後円墳。静神社近辺に唯一残った古墳であり、倭文族の指導者が葬られたものであろう。

方墳に見えるのは、前方と後円のどちらかが削られているのであろう。

〇小祝糠塚古墳 ・・・ 五世紀の前方後円墳。権現塚より古い。久慈川水系の本流に近い。

高台の上にあるので、もとは久慈川から見上げることができたのではないでしょうか。

7月22日(木)・・・・・・・・・・・・・・・・

海の日で休み。だが海へ行く甲斐性も気力も無いので、所用の後、山中を散歩する。

〇狭山湖 ・・・ 東京市民の上水道のために昭和9年だかに作られた人造湖である。

戦時中、堤防が爆撃されると大洪水になるので、防爆工事というのが行われ、この堤防の上に積み石してコンクリで固めてあったそうですが、平成20年ごろそれを壊したら、下から昭和初めの高欄と灯火標が出てきた。昭和初期のハイレベルなコンクリート建築がわかるらしいんですが、もう尾張猫の国にはそんな「昔の栄光」は小判じゃよ。

このへんでもう熱中してきた。

〇トトロ森 ・・・ わが国のナショナルトラスト運動の草分け的存在として、2000年代の初めに創設されたNPOが設けたサンクチュアリ。

お地蔵さんもあります。50年ぐらい前、まだ都会との交通がままならぬ時代に、夏休みにこんなところのおふくろの実家に預けられていたりしたら、いい思い出になったであろう。

とにかく蚊がうるさいんです。日陰はいいですが、日が当たるとくらくらします。森の中で道が分からなくなるが、方向感覚だけはまともなので、なんとかクモの巣と蚊を引き連れながら脱出。

〇聴松閣 ・・・ 狭山三十三観音の一、馬頭観音を祠る。

松ではないが、木々を揺する風の音も涼やかであったが、立ち止まると蚊がうるさいのでじっとしていられない。近くの森は「実験中 立ち入り禁止 早稲田大学」という不気味な立て札が・・・。

〇三ケ島(みかしま)の中氷川神社 ・・・ 式内・中氷川神社の論社の一。もう一つは所沢の中氷川神社です。大宮の氷川神社、奥多摩の奥氷川神社とともに「武蔵三氷川」の一とされる。

近世には「中宮」と呼ばれたそうですが、氷川と奥氷川の「中」ではなく、社地が長いので「長宮」と呼ばれ、それが転じて「中宮」となったよし。

16世紀の御正体鏡が遺り、近世文書が大量に伝存する古い神社ですが、18世紀〜19世紀に神官・日歌輪翁(ひかわおう)というひとが出て、独自の神道と社会活動で多くのひとびとを導き、天保の飢饉を乗り切ったそうです。この写真は「日歌輪翁の碑」。そのほか、明治・大正の女流歌人(葭子さん)もこの神社に嫁入りしてきているとのこと。

神社の社務所に、祭礼で呼ばれたのだと思いますが、歌手の方々のポスターが貼ってあって、おもしろかった。「片恋川」とかいろんな歌があるんだなあ。「千人江」という人の読み方がわからん。

社殿裏にこんなのがあったので、鬼太郎の家だと思って近づいてみたら、御神木であった。

このあと自販機も見つけ、さらに狭山ヶ丘駅前でQBボックスを見つけて散髪してもらう。小手指で降りて「ぎょうざの満洲」行こうかと思ったが、八時になったので断念。

7月24日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

オリンピックですが、いつまでも祝祭気分でいるわけにはいかんので、鴻巣・笠原調査。

〇埼玉県環境センター ・・・ 展示室があるというので「博物館好き」として一度チェックしてみる。

家族向きです。地球環境問題の映像がちょっとコワい。

〇種垂(たなだれ)城跡 ・・・ 小山氏時代の騎西(きさい)城の支城であるともいう。16世紀前半までは存在した模様。

城跡公園。種垂城の遺構はもともと滅失しており、縄張り等不明。

説明めんどくさいのでこの看板を見てください。

公園の外にある小字「天神」といわれる茂み。ここだけ耕し残されて「入らず禁忌」があるようで、沖縄のグスクっぽい。この南側は小字「シロンチ」。「城の内」か、という。

〇久伊豆神社(笠原) ・・・ 式内足立神社の論社の一です。足立郡内ではないのですが、このあたりは今も「笠原」の字名が遺り、日本書紀に出てくる「笠原国造」(世田谷地方の国造と争ったという)の本拠地と考えられ、国造一族が遺した古い神社であることは確かである。

なお、「久伊豆」は古代〜中世に武蔵北部を支配した野与党・私市党(のよとう・きさいちとう)と呼ばれる武士団の共通の信仰対象と推定され、元荒川流域に広がっている。

昭和35年、当時の鴻巣市長さんの筆で書かれたもののようです。上手いですね。古い集落で庚申塔とかいろいろあるようですが、所用もあるし何より熱中してきたので、本日の調査はここまで。

7月25日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

会議前のわずかな時間を使って調査だ。肝冷斎の誠実な人柄が偲ばれる。

〇筑土八幡宮 ・・・ 「つくど」と読みます。都内飯田橋にある神社です。嵯峨天皇の御世に瑞雲から鳩が降りてきたので、八幡さまを祀ったのだそうです。伝教大師・最澄さまが来たという伝説もありますが、16世紀に上杉朝興が江戸整備の一環として、総鎮守としたという。

上杉氏時代にはここに筑土城があったという。現在の江戸城あたりにあった江戸湊や江戸時代初期まであったという平川(平河町に名前が残っています)を見下ろす要害の場である。

上の写真は右下から見上げているような位置関係になります。

境内には明治の音楽家、東京師範教諭、東京都視学官であった田村虎蔵の顕彰碑がありました。「まさかりかついだきんたろー」の楽譜が刻まれています。田宮虎彦ではありません。

そのあと神楽坂を通って地下鉄へ。オンライン会議の後、所用もあるのだ。肝冷斎は多忙な日常生活を送っているのだろうなあ。

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