フィールドワーク録23−1 (起:令和4年1月1日(土))  目次へ  令和3年10月2日〜へ

書斎派のみなさんは寒い暑い関係ないからいいなあ。わしは現場を重視するタイプの冒険主義的歴史民俗学者だから、たいへんですよ。わははは。

 

1月1日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

年越しで神田明神、湯島天神にお詣りして疲れた。だが、新年早々調査である。残された年月を思えば焦らざるを得ない。

埼玉県坂戸へ。夏(お盆の頃)行ってそのときに調査しきれなかった点を調査する。

〇西光寺 ・・・ 16世紀勝呂氏の開山だそうです。本堂裏の墓に江戸期の稲荷観音堂あり。曹洞宗。

門の左右の石製仁王像が珍しい(そうです)。この寺のあたりが中世期の塚越館跡。ここから東側に広がっていたようです。

本堂裏の墓場から右手の方にある竹林に土塁跡らしきものがあります。さらに、この写真を撮っているときの背後、塚越館の東端あたりと思われるところが、前回の来訪時に「ここヤバイかも」と書いていたところで、今回も結界の中に入ったり写真撮る勇気はありませんでした。しかしじろじろ見てきたので、一番奥がどうなっているかわかった。やっぱり深刻な感じがします。もしかしたら、ここが「義家塚」かも。

〇東光寺 ・・・ 鎌倉街道を挟んで東にあり、西光寺と相対しています。こちらは12世紀に、池に薬師如来が映ったので寺を作った、あるいは新田義貞が鎌倉攻めのとき、街道の東西から光が射したので、そこに寺を作った、とかいう伝説もあるらしいんですが、西光寺の開創の時代に合わないようです。

こちらは真言宗のようです。なお、こちらの看板によると東光寺も西光寺もこのあたりの領主・青木氏の菩提寺だ、とのこと。

〇雷電塚古墳群 ・・・ 主墳の前方後円墳上に雷電塚があるため、その周囲の円墳も含めて「雷電塚古墳群」と呼ばれます。

1号墳。6世紀後半のものらしい。角にお地蔵が立っていて、墳頂上は雷電神の祠。夜この前通るとコワいと思われる。この古墳が本来の「雷電塚古墳」。

祠のところまで昇ってみました(入るなと書いてあるので入ってはいけません)。光線の関係で上の写真と違ってよく見えますね。これならあまりコワくないかも。前方部のさきの右手に2号墳(稲荷塚古墳)がみえます。

3号墳。東光寺の裏にあります。墳形が遺っているのは、1〜3号墳だけ。

1月2日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

親族のところに所用があったので、その前に調査。貪欲である。

〇高輪泉岳寺 ・・・ ここも三十数年振りかと思うが、行ってみる。

境内。曹洞宗の関東三学院の一であり、今も修行僧がいるはず。お線香が自動販売機になっていた。

「獅子吼」のかっこいい扁額は島津斉宣筆という。

義士墓へ。ここは参詣の場であり見学者はお断り、なのでお線香を買ってお参りする。参詣の場なので写真も撮りません。

吉良上野介首洗い井。右側の石欄を寄進しているのが川上音二郎。

このあと、資料館で、義士とは関係ないかっこいい曼荼羅(線がすべてお経の文字列で作られている)を見て感心。さらに別棟の木像館で義士木像を鑑賞す。どうしても各人の石高とか俸禄に目が行ってしまうのはサラリーマンのサガであろうか。

1月3日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

月曜日だが正月休みです。明日から会社だから、その前にいい古墳に行きたいなあ・・・と思って海老名へ。

〇海老名の古ケヤキ ・・・ 相模川氾濫域から河岸段丘を上がったところにあります。

かつてこの河岸段丘下が相模川の河川港となっており、舟つなぎの杭にしたケヤキから成長したのだ、と伝わる。

〇ひさご塚古墳(上浜田7号墳) ・・・ 大ケヤキからさらに数百メートル尾根を進んだあたり、河岸段丘上に張り出した台地の先にある4世紀の前方後円墳。推定墳長80メートルとなかなかでかい。

「相模国造塚古墳」ともいうそうですが、時代的には国造とは関係なさそう。

墳丘上から相模川方面を見下ろす。相模川河川交通の利用者に「見せる古墳」であった。

〇上浜田古墳群 ・・・ 一番古いのが上の7号墳のようです。あとは6世紀ぐらいまでに順次作られた首長墳かと思われますが、3,4,5号は滅失して、現存するのは1号墳、2号墳、6号墳および上の7号墳。(なお、8号・9号があったという地元の伝承もあるようですが、詳細不明とのこと)

1号墳(馬捨塚)。未発掘のため墳形、時代不明。

2号墳。未発掘のため墳形、時代不明。

6号墳。方墳。一辺20メートルぐらいあったというので、遺っているのはほんの一部分のようです。ここからも相模川に流れ込む谷戸(やつ)の一つがよく見える。

〇浜田歴史公園 ・・・ 上浜田古墳群のあたりから尾根を東側に降るあたりには、縄文〜中世の住宅跡があるようですが、ほぼ開発により滅失しています。住宅群のさらに東側に「浜田歴史公園」があります。

この公園は、13〜15世紀の豪族館跡だそうです。井戸、建造物跡、チャイナからの輸入物品などが発掘され、文字記録は無いもののここから南東に2キロぐらい先の早川館(後に江戸方面に進出した渋谷氏の城館)と何らかの関係があるようです。

〇相模国分寺跡 ・・・ 相模国分寺はこの後ろ側の丘陵に現存。

明治時代の先覚者が遺跡保存に務めてくれたという。

なお、海老名駅前に、復元七重塔が完成。かっこいい。ロラン・バルトによれば塔は天上に向かう意志であり、男根の象徴である、そうですから、男のロマンがあるのだ。

〇相模国分尼寺跡 ・・・ こちらも以前から存在は認識されていたが、一部JR相模線に削られています。尼寺も男のロマンではある。

庚申堂が立っているあたりが金堂跡とのこと。

確実に日が長くなってきている感じがします。年末より遺跡一つ分ぐらい多く見れるようになったか。今日はなかなか納得の調査でした。ロマンスカーミュージアムに寄れなかったのが心残りですが。

1月8日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一昨日雪が降って寒かったが、今日は少しぬるんだ感じです。

〇東京都庭園美術館・・・ 旧朝香宮邸。

アールデコのかっこいい建物(美術館本館)は15日からの美術展の時しか入れないよし。庭園だけなので200円。

日本庭園の中に茶室「光華亭」があります。

(参考)雪の日のセピア色の思い出だ。

  

1月9日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は、大倉集古館へ。「生誕120年 篁牛人展」を観察してきました。

大倉喜八郎。息子の方が喜七郎。

篁牛人は、こんな絵を描いていた人である。興奮します。

「篁」はすごい苗字だと思ってましたが、富山の坊主の息子なんですね。大正年間に地元で商業デザイン業をやってみたが、そんな市場いまだ無く、画業に転じたが全く認められず、紙代がないので絵が描けずに北海道などあちこちで居候したりしたが、60代になってやっと地元の医師がパトロンになって、画材が買えるようになった。70代で中風で絵が描けなくなったころに中央画壇の注目を集めるようになり、死んでから値段がついた、という(奄美で死んだ田中一村同様、)肝冷斎の本来たどるべき人生をたどった人である。

ただし、今回展示されていた年譜を見ると、一年志願兵から始まって太平洋戦争終了時には少尉復員、ヨメと子どもがいたことなどが判明。年譜でのあちこちでの居候の世話になりかた見ていると、作品抜きでそれだけで満腹してしまいます。作品は、異様にデフォルメされた人物や抽象的な背景による東洋的画題の水墨画が多い。画題はかなり肝冷斎と共通しているぞ。

岡本全勝さんに教えてあげなければ・・・と思ったのですが、まだHPには反映されてないけど、どうせもう観に行ってるだろうなあ・・・。→1月11日補足:やっぱり観に行ったみたいです。肝冷斎と同日ですね。地元情報が入っていて使えます。→篁牛人展 | 岡本全勝 (zenshow.net) なんと、肝冷斎にも触れられていますぞ!

毎日の生活費のために旅館の座上で描いた絵が相当あるはずですが、発見されていない、というか買い取られていないというべきでしょうか。

肝冷斎「風神雷神図」。画題は共通してるなあ。

そのあと、300円で四谷迎賓館でお茶飲んで興奮を冷ましてから帰ってきました。今はもう元通り、倦怠感でいっぱいです。

カッコいいなあ。

日が暮れていく。だが、明日も休みだからほっとする。

1月10日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

祝日です。都内から離れてみる。

〇佐野 ・・・ 高崎の南部です。ここには、六世紀に「佐野屯倉」(さのみやけ)が成立しており、その管理一族が山上碑によれば「佐野三家」(さのみやけ)であったという。現在も数十の古墳が遺る。

その中でも首長墓と目される「漆山古墳」の石室。六世紀の古墳で、墳長は70メートルぐらいありそう。

左側の細い石板は、文政年間に高崎延養寺・良翁和尚が建てたもので、

かみつけのさののふなはしとりはなし おやはさくれどわはさかるがへ

という万葉集巻十四の歌が刻んであります。

―――上野の国にある佐野の舟橋の、舟を取り外して往来の邪魔をすることがあるが、そのように取り離して、親はおまえとの仲を裂こうとするが、わしは裂かれるもんか。

ということらしいです。謡曲「佐野」では、この男女は、佐野の舟橋を実際に渡って夜な夜な会っておった。ある晩、親たちが舟を一隻外して二人を会わさないようにしたのだが、二人は手をとりあって水中に落ち、翌日水死体となって発見された。その二人の霊が現れて、恋の妄執を解放する読経を頼み、見事妄執から解き放たれた、というお話である。みなさんも、妄執に気をつけてくだされよ。

この小祠は、佐野常世を祀る「常世神社」(こちらは謡曲「鉢の木」である)。常世の屋敷がここにあったそうです。

「佐野常世が親族に奪われた佐野の荘は下野では・・・」

とふつうの人は思うと思いますが、そこから追い出されてここに蟄居していたところへ、北条時頼さまが諸国修行の坊主となって現れ、鉢の木を処分して温めてくれた、という場所なんだそうです。常世はそのあと荘園をもらったので、墓は栃木の佐野にあるとのこと。

なお、この神社が立っている小丘は佐野群集墳の一つ。

定家神社。右手の小丘は群集墳30号。

こまとめて袖うちはらふかげもなし さののわたりの雪のゆふぐれ

で有名になった歌枕なので、17世紀ごろからここに藤原定家が祀られているようです。

定家神社の社殿の変なやつら。

佐野の木橋から、佐野方面を見る。右端の繁みが定家神社。真ん中の建物の向こう側に常世神社があります。

〇倉賀野 ・・・ 佐野の隣が倉賀野。こちらも古代から開かれ、近世においては中山道の宿場町として、高崎よりも栄えた。利根川水系の最上流河湊となることから、上州・信州諸藩の「回米港」となっていたのである。

浅間山古墳。これは後円部です。大田天神古墳に次ぐ東日本第二位のでかい前方後円墳。墳長170メートルぐらいでしょうか。私有地のため立ち入り禁止。

小鶴巻古墳。前方部が右手の共同墓地で、後円部が左手の丘。

大鶴巻古墳。でかいだけでなく、美しいです。

大鶴巻古墳から烏川を渡ったところにある大山古墳。

ええ古墳たくさん見せてもらってありがたいところ、さらに古社・倉賀野神社である。12世紀ごろから記録に現れるようだが、神社自体はもっと古いと思われる。中世神道や唱道文学の世界で有名な「八郎伝説」(兄弟に窟に閉じ込められて蛇と化した八郎さまが、イケニエを求め、その後都から来た高貴な方の教えで改心して土地の守護神となった)の舞台でもある。

明治初年、名工北村氏の彫刻がすばらしい。上の丸は笙を吹いています。下の丸は琴を弾いています。琴を弾いているのは、八郎さまに道理を説く高貴な方なのだそうです。

さらに、倉賀野城跡。思川沿岸の河岸段丘上の要害にあった。倉賀野氏は秩父平氏一党、当主が川越夜戦で戦死の後、関東上杉→越後上杉→織田滝川グループ→北条氏に属して、武田や北条や羽柴と戦い、小田原開城時に廃城となった。

中山道・倉賀野宿高札場跡。遊女や飯盛女で有名で、十返舎一九先生も「のりごこちよさそうなくら(鞍)がの(倉賀野)の飯もり女」と評しておられる。へへへ。

実に納得の古墳、古社、城跡であった。よし、前向きに生きるぞ! しかし明日が平日なのが納得できず、倦怠してきた。やはりもうダメだ。

1月16日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

腹痛治ったんですが、〇臓の方がどうもなあ・・・。だが、調査に行かなければなりません。

〇練馬区立美術館 ・・・ まず、行きがけの駄賃的に練馬の美術館へ。

小林清親展をやっていたので、観に行く。小林は、人物・歴史ものの月岡芳年に対して、景物・滑稽ものの方の「最後の浮世絵師」と言われた明治の絵師です。旗本の武士として鳥羽伏見から江戸まで戦い、江戸開城後の事務整理中に薩摩藩のやつに殴打されたという屈辱の記憶を持つらしいのですが、山岡鉄舟みたいな巨漢で、二メートル前後の身長があったという。

光線画の創始者ですが、浮世絵師なので日本画の方からはあまり高く評価されないようです。同じJ-popでも、日本画が歌謡曲で浮世絵はフォークソングみたいな違いがあるのでしょう。

なお、今回の展示は2015年に小林展をやった後集まった資料等を展示するもの。艶画の下絵等やっぱりおもしろいな。おとなとして。

そのあと、志木に行ってきました。川越街道・中世奥州道の引又の宿です。

〇志木市立郷土博物館 ・・・ これはすばらしい。古典的な博物館ですが、模造紙にサインペンで書かれたと思われる各資料の説明の濃密なる、関東一とも評すべきであった。

民家のはなれを改装したということですが、このたたずまい、無料、など「おれはここに来たいから郷土資料館を尋ね歩いていたのだ」という気になってしまうようなノスタルジックな博物館です。

この一部屋にいろんなものが入っています。肝冷斎は引又の宿の概要、明治以降の富士信仰、城山遺跡について知りたかっただけなのだが、いろは樋とか東武特急ブルーバード、週末急行ゆめじ、とか、それ以外のことも勉強できた。

物置みたいになっている「農具館」。文科省系と農水省系で補助金の出元とかが違うのかな。この「電動唐箕」は初めて見ました。東京・岩田兄弟工業株式会社製。製造年は記載ないが、満州国商品登録済み、とあるのでだいたい推定できる。

〇敷島神社・田子山富士 ・・・ 明治初年に地元の高須さんたちが造った擬山だが、あちこちに実際の富士山を模した石窟や石碑・石像類が置かれていて感動的である。ただし、今日は閉山日のため登れず。

国指定有形民俗文化財である。頂上の浅間神社からはどんな世界が見えるのであろうか。

〇引又宿・旧西川家くぐり門 ・・・ 復元いろは樋の近くに保存されています。

慶應二年のものという。なぜなら〇印のところに、

同年に起こった武州一揆の際の刀傷の迹が認められるからである。

〇柏の城本曲輪跡 ・・・ 木曽義仲子孫・大石氏の居城。上杉、北条に仕え、小田原開城後に廃城となった。その後、この地には徳川旗本の月山氏が入る。

現在、志木第二小学校。

〇長勝院・ハタ桜 ・・・ 柏の城西曲輪に当たる。長勝はこの地に氷川神社などを創建した11世紀の領主・藤原長勝の名からとられたという。なお、このあたりは「亭(ちん)の下」という地名が遺り、在原業平東下りの際、しばらく居館となったところであるとの伝説があります。

ハタ桜は、花弁に旗印といわれる模様がついているためにそう呼ばれるのだそうである。

こんな感じ。樹齢数百年だそうです。

〇城山貝塚 ・・・ 前5000年ごろの貝塚とのこと。崖線下にあり如何にも当時の海岸線ぽい。

近くに住居も発見されているそうです。

〇館氷川神社 ・・・ 11世紀の創建といいます。昭和35年ごろに三級神社、昭和50年に二級神社になったという記念碑も立っています。神社の「級」については知識が無かったので今度勉強しておきます。

嘉永年間に建て替えたときの記念碑が遺っています(中央右の石碑)。これに出てくる百姓身分の者が全員「苗字」を持っていることから、江戸晩期の農民が普通に苗字を名乗っていたという事実を証明する貴重な資料とされている。

先に練馬に行ったのであまり時間が無く、予定していた古墳などは次の機会になりました。こんなに見どころがあるとは。どこかにカッパのカパルもいるはずなのだが・・・。

1月23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

まんえん防止中。ほそぼそと行きます。どうせ奥の細道じゃ。

〇蒲田・女塚古墳 ・・・ 女塚神社にあります。周囲に古墳群が無いので古代のではないっぽいのですが、伝説では、新田義興(義貞のむすこ)が六郷川の渡しで謀略により斬殺された後、侍女の少将局が殉死した。彼女を埋めた14世紀のものだという。

社殿の左側の繁みが古墳。なお、右手の丸印の中などに神社で飼われているらしいでぶネコ数体の姿が・・・。

〇大森・区立龍子美術館 ・・・ 日本画界の風雲児・川端龍子が自ら作った美術館。俳人・川端茅舎は実弟、ですが、異母弟なんですね。長子の龍子の戸籍に「庶子」とあり、「ではおれは人間の子ではない竜の子だ」と言い出して龍子になって、あちこち竜関係のマークとか虎と対立したり児戯に等しいこだわりを見せる。

文化勲章をもらった記念に、昭和39年に作ったそうです。設計も龍子。

「みなさんが選ぶ・・・」コレクションを見ました。大画面で有名な方(そのために横山大観と手を切って自分のグループを立ち上げた)なので画がでかい。

美術館向かいの龍子公園は元自宅とアトリエ。これはアトリエの遠景です。巨大なガラス戸の中、暖房と照明が弱いので夜はたいへんだったのでは。

〇竹橋・国立公文書館 ・・・ 「近現代の文書管理の歴史」展が始まったので観に行く。

今日はもう一軒いくつもりだったが、もう四時なので、ここが最後になります。

これは重要文化財「公文録」中、明治6年の皇居火災により焼失した文書の復元を命じている文書。奥の方は民間から借りていたものの賠償についての文書。このほか、関東大震災と終戦時の混乱により文書が消えている。

御厨貴さんが「いちばん当たり前のことから(記録が遺らないので)忘れていく」と言ってますが、こういう当時の「当たり前」を復元するのは大変でしょうね。そして、現代の頭のいいお役人は、これらの記録を参考にすることなく「あ、そう。でもIT時代なんで、今は」と鼻で笑って棄ててしまうのだ。賢者は歴史から、愚者は経験から学ぶんだよね。

 

(まんえん防止で自粛したりしている人のために)

肝冷斎から、某年某月某日の沖縄・やんばる地方ウタキ六連発をお蔵出しです。いつ行ったか知らんけど。

〇名護・宮里前のウタキ ・・・ 昭和40年頃まではここが海岸線だったそうです。

周囲は亜熱帯植物ハスノハギリの森です。これが松の代わりに海岸に植樹されていたのだそうだ。

〇名護・山入端ウタキ ・・・ これも、もとは海岸線の塩見の丘かと思います。

拝所の右手の石段をあがるとイベがあります。今でもそこからは海が少し見える。

〇名護・安波のクバウタキ ・・・ 拝所、ウ墓、イベがきれいにそろっている、そうです。

これは拝所。背後の森に上り石段あり。上ったところに祠があるが、これはうはかかなあ・・・。とにかく神さびたところです。夜中には行かない方がいいのでは・・・。

〇本部・北(に)の方(ふぁ)ウタキ ・・・ カルスト地形に作られた最近の竜神様みたいです。

カルスト地形の下から拝みます。ウタキはウブスナなので土地の人しか守ってくれないのが普通ですが、ここはお祈りすればおいらたちでも守ってくれるみたいです。

〇名護・真照喜屋(マディキヤ)ウタキ ・・・ 58号に面した鳥居をくぐっていくと、山中にしめなわ付の拝殿がありました。

拝殿だけで、どこもご神体はモリです。

〇名護・稲嶺の上之(ウエノ)ウタキ ・・・ ぬるどんちもあしゃぎもあります。

稲嶺の集落を見下ろす丘の中腹に、アシャギがあります。後ろの丘がウタキ。公園とウタキの間に三つのガーとぬるどんちあり。ウタキには鳥居と拝殿があります。

ああ、ちょうど今頃、やんばるはヒカンザクラの咲き初めだろうなあ。今年は知らんけど。毎年月末からはもうサクラ祭だからなあ。

(「通」の方からは、今帰仁城内のテンチジアマチジ、ソイツギのウタキ、城外のクバのウタキ、今帰仁玉城のスムチナウタキはどうしたのだ? との問いもあるかも知れませんが、それらは既に行った都度報告してますから、過去の観光調査を丹念に見ていただければ出てくるハズ。おたく、どこまで行っておられる? ひっひっひっひ)

1月29日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

午前中整骨院に行って、そのあと某ブックオフで能條純一「昭和天皇物語」にはまってしまって立ち読みしていたので、立ち上がりが遅くなってしまいました。

〇山崎記念 中野区立歴史民俗資料館 ・・・ 江古田の名主で山政醤油を営んだ豪商・山崎家から多量の資料提供(とおそらく土地も)を受けてできた資料館です。

いろんなものがこの一室にあるのである。真ん中のまるい所は「中野のみどころコーナー」。正面は鷺宮囃子のお面、右手は戦災で焼けた宝仙寺三重塔の模型。向こう側には中野にあった綱吉時代の「御囲」(イヌ収容所)の図面とおいぬさまを運ぶ「犬駕籠」が置いてあります。

これは吉宗さまから中野の源助に賜わったゾウの関係資料。一年以上も飼養に成功し、その間、糞をクスリとして信州方面にまで売っていたそうです。

このほか、野方の水道塔の模型や近世のお茶やインゲンマメ栽培などについて勉強する。水害や中世期の武士団や鉄道とかに大きな特徴があるわけではないのでまとめづらいでしょうね。弥生時代の竪穴住居の模型があって、中に両親と子どもらしい3人の人形が置いてあるが、そのうち奥さんらしいのが意外に巨乳であったのが特徴的であった。

〇江古田の経塚 ・・・ 来歴はよくわからないようですが、人骨なども出ているようです。

大正期までは人の背丈以上の高さの土盛りがあったそうです。

〇北江古田遺跡 ・・・ 縄文早期から晩期にかけての遺跡。

妙法寺川のほとりにあります。この左手は江古田の森公園。

江古田の森公園は、かつての東京府立結核療養所の跡地だそうです。

江古田の森公園。寒いのは寒いのですが、上空のジェット気流の方向が少し南西よりに変わってきたような気がします。春が来ても楽しいわけではないのでこなくてもいいが。

1月30日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いろいろ残余の時間を計算すると、今日もどこかに調査に行かねばならんという焦りにも似た気持ちを懐かされるのである。

〇羽生城跡 ・・・ もと藤原秀郷が武蔵押領使の任を行うために築城したといい、新田系豪族が上杉氏に属して武田・北条と争った。最後は大久保忠隣が領したが、元和年間に改易され、廃城となった。

城址の碑(右端)が立つ古城天神。秀郷が勧請したという。

この古図の右上端にある「天神曲輪」がこの天神の境内地らしい。今はわずかに用水路に面影を残すだけであるが、もとは利根川河畔の沼地にある要害の地である。

神社にある絵馬の数々。弓道の奉納試合とか大正年間まではいろんなことをしていたみたいである。

もと城内にあった古墳上に祀られていたという高山稲荷さま。現在では羽生町の街並みをはさんだ西側に鎮座する。この付近、幕末の広大な羽生陣屋の跡地。利根川を扼して北関東の抑えとなるはずであったが、官軍に占領された。

高山稲荷から南方に用水路沿いに行くと、直交して中川の起点があります。昭和45年のもの。中川は、江戸時代の大工事による利根川東遷以前の、元利根川(元荒川も同じ流路)の流路を流れる河川です。中世までの利根川は、このあたりから南流して、武蔵の地を毎年のように水びたしにしていたのだ。

現在の中川流路近くにある「城沼干拓」の碑。戦後の土地利用計画で埋め立てられた。上の地図の二つの小沼あたりがここに当たるようです。

羽生市立歴史民俗資料館は1月下旬から2月中旬まで閉館中(コロナではなく併設図書館の整理のためとかなんとか書いてあった)。

運動公園でインドの人たちが集まって何かしている。寒いのに大変だなあ、と思いながら観戦する・・・・・・これは「クリケット」だ!生のクリケットを見るのは初めてなので、興奮して「うーうー」とか唸ってしまう。投げ手の投げるタマ、すごい速いね。一回転しながら投げたりしていた。みんなすごい熱くなってます。

2月5日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

立春しましたが一段と寒いですね。

〇騎西城 ・・・ 騎西(きさい)は中世・私市(きさいち)党の根拠地ですが、この城は中世末期、上杉謙信が攻めあぐねたという沼城です。幕藩初期には大久保氏が入ったが、小田原移封後は廃城となり、江戸時代にはもうほとんど跡形も無かったよし。

唯一の遺構がこの天神曲輪土塁。なお、向こう側(矢印部)に見える模擬天守的な建物は、昭和50年に作られた郷土資料館ですが、年に2回しか開きません。怪しからん。

天神曲輪の東数百メートルのところにある前玉神社。かつての大手門脇になります。江戸期の地図では、「元久伊豆」とされており、の跡地だそうです。騎西の久伊豆は延喜式式内社。江戸初期に城内の火事に類焼するのを恐れて現在地(騎西宿の端っこ)に移された玉敷神社のこと。

大手外にある金剛院境内に「絵板碑としては、日本最大」といわれる阿弥陀三尊板碑があります。

こんなのが刻まれています。

金剛院の南から東にかけて、「足軽町」があり、足軽たちの家が並んでいたとのこと。

〇加須市立騎西図書館 ・・・ 郷土の偉人について展示あり。國學院学長・玉敷神社宮司・河野省三と「谷山の予想」で有名な数学者・谷山豊だ。

河野は国学研究者として有数の人物で、國學院学長時代には金田一京助、折口信夫らを招聘。「谷山の予想」は、それを証明することによってフェルマーの定理の証明に近づいたとかなんとか。

河野も小学校不登校の経験があるそうですが、谷山は帝大入学まですべて試験だけで進級・進学したそうです。河野は東京に出ると言って出て行って、すぐにホームシックで帰郷したことを恥じた、谷山は体が弱かったから、ということですが・・・。

〇騎西宿 ・・・ 本宿と本町から成る。

大正期には乗合自動車停車場があり、地域の交通の中心地であった。ただし、東武鉄道は騎西を通らなかった。

〇玉敷神社 ・・・ 延喜式式内社。久伊豆神社の元締めの一つです。

「玉敷神社」の鎮座は江戸初期ですが、樹齢500年の銀杏樹があります。実は、この地は、玉敷が来る前から延喜式式内社地であった。何故ならば↓

境内摂社の一つ「宮目神社」(本来「みやひめ」神社)。もとこの地にあった大宮媛命を祀る神社地主神ですが、大宮媛宮自体が式内社なのである。

このほか、境内には河野省三屋敷跡(家はありません)や、河野の不登校を解除するようご母堂が祈った天神社などがあります。

ついでに、行田市に属する真名板へ。

〇真名板薬師堂 ・・・ もともと新義真言宗の花蔵院というお寺があったんですが、廃仏毀釈で絶滅してしまい、薬師堂だけが遺った。

右端に薬師堂があります。真ん中あたりの大銀杏の向こう側に板碑が立っていて、左手の繁みは古墳。その手前側の石碑は「新堰の碑」。ぎゅぎゅっと歴史的に集約された構造物群だ。

歪んで撮ってしまって申し訳ありませんが、薬師堂内に祀られる鎌倉時代の銅像薬師仏(「手無し薬師さま」)。廃仏毀釈の後、謎の地鳴りがあり、占ったところ、この地のどこかに貴重な仏像が閉じ込められているとの託宣があった。探したところ、くずやの物置に放り込まれて熔解を待っていたのが発見されたんだそうです。

〇真名板高山古墳 ・・・ 前方後円墳。六世紀後半と推定され、数キロ離れたところにある「さきたま古墳群」と並行するため、被葬者間の関係が注目される、と言われますが注目した結果は出ていないようです。

盛り土の変形が大きくて、どちらが前方でどちらが後円かわからなくなっていますが、墳長90メートルというのでかなりでかい。

〇板碑 ・・・ 13世紀のもので、行田市内最大、とのこと。

種字・キリークが刻まれています。

北関東からの赤城おろしがとにかく寒かった。

2月6日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どこかに春が来てないか、と、今日は千葉・四街道の物井に行ってみる。

物井は江戸湾に面した千葉・稲毛と印旛沼側の佐倉とを分ける台地の東北端にある戦略上の要地ですが、今回行ってみたら「もねの里」と称してすごい数の分譲住宅になってました。後世、このあたりを発掘したら「こんな無数の家々に人が棲んでいたのか」と驚かれるかも知れません。

〇屏風山城跡 ・・・ この崖の上が、台地の東北端にあった砦跡らしい。

実際に行ってみると住宅になっているので、こちらが不審人物みたいに見えているでしょう。それにしても空の抜けるような青さよ。季節が変わりつつあるようである。

〇古屋城跡 ・・・ 文書記録は何もないようですが、台地北端(上の写真だと屏風山城の左手の方)に、14世紀〜15世紀の城郭跡が遺り、公園となっています。主郭に小さな三角曲輪が北とおそらく南(すでに住宅化)に付属していたものとみられます。

主郭の中央部に井戸(覆屋が設けられている)があります。井戸の周囲は巨大な輸入陶磁器になっており、これが発掘されて城跡と判明したらしい。

主郭西側の空堀。

〇庚申塔 ・・・ 台地東南部に向けた斜面に石造物あり。

下の大きな家の「腰当山」であったろうと思われます。

〇さいの神 ・・・ この台地は、木曽義仲子孫と称する桜井家が支配しており、北の弁財天と南のさいの神の祭祀権を握っていたようです。

ちょうど成田線の電車が通っていく。

〇館山城跡 ・・・ 台地南側斜面上にあった模様。

右側の建物の左側の崖面あたりだと思われます。

〇もねの里古墳群 ・・・ 30墳墓ぐらいあったらしいんですが、現状では5号墳と8号墳だけ遺して公園にしてあります。

二基だけ遺された左側が5号墳、右側の向こうの方が8号墳。ブラックジョーク的ですが、「古墳をたいせつに。こわさないようにして遊んでね」と書いてありました。

なお、肝冷斎は荀子流の「後王主義者」ですから、文化財よりも開発を重んじております。

今日は浮世絵コレクションを見に来るつもりで来たんですが、中世城郭と古墳になってしまった。

2月11日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

都知事が「都道府県域越えるな」というので、マジメに言うこと聞いて、東京都下日野市の高幡不動さんに行ってみる。西東京は積雪してるかと思いましたがまったくなし。車で来てもよかったかも。

〇高幡不動尊 ・・・ 高幡山金剛寺不動院というようです。

山門は江戸時代のもの。行基菩薩や弘法大師の開基伝説もあるようですが、少なくとも平安時代半ばには真言系の寺院があったそうです。江戸時代、江戸にも何度も出開帳に来たかっこいい不動三尊像は平安時代のもので、南北朝期に修復したときの文書や舎利が体内から見つかった。

本堂で加持祈祷してたんで無料で入れてもらう。かなり効いたと思います。

裏の愛宕山は中世高幡城跡。石段上の山頂部が本丸跡とされる。

夜中に来たらコワそうですね。

〇日野市立郷土資料館 ・・・ 高幡台団地近くの廃小学校の校舎を利用。寒かった。確かに、むかし小学校って寒かったなあ。いつもガタピシいっていた記憶があります。

企画展として、市内で発掘された土偶の展示。すごくたくさん出てますね。

これが一番かっこいいかも。

市内で掘り出された「ヒノクジラ」の前歯だかの化石。

この間までは、童謡「たきび」の作詞者・巽聖歌展をやっていたようです。

そのパネル展示があったが・・・あれ? 1月29日に中野に行ったときに、童謡「たきび」のモデルは中野の何とかさんの家の垣根、と書いてあったのを見た記憶が・・・。

巽は岩手県出身、戦中、中野に新美南吉と一緒に暮らしていたときの下宿先の垣根のたきびをモデルにした、とのことで、その巽は終戦間際に岩手に疎開した後、戦後亡くなるまで20年ぐらい日野に住んでいた、ので、「たきび80周年」を日野市立郷土資料館で展示したそうです。

たきび初出の「ラジオ少国民」昭和17年12月号。「イレタビ」とは何ぞや。モデルの子どもは何ものか。「トンボ鉛筆」は長い命を持っていますね。

「クロブタブンチャン」の内容を見る限り、おれでも掲載してもらえるかも、と一瞬思ってしまうすばらしさだ。実際には当時はギルド化しているはずだから掲載してもらえないと思います。

新美の原稿を預って、戦後、彼の作品を世に出して「ゴンよ、おまえだったのか」を学校教育させた人なんですが、新美の遺族等からは原稿返却を求められたりして失意のうちに死んだ、六十八歳、と書いてありました。戦中に死ぬ時作品を託されて、「学校推薦図書でカネになる」「郷里の知多に記念館が建つ」なんて夢にも思えない時代を知っている目から見たら、バカらしかったやろなあ、と思いますわー。なお、巽は小学卒後、鍛冶屋の手伝いをしながら月刊「少年」の応募券を集めて投稿を続け(←こんなシステムだったんですね)、四年目でやっと掲載、さらに四年後に出版社に雇用を求めて上京、関東大震災にあったりしながらなんとか這い上がったらしく、「夢をあきらめてはいけないと教えてくれます」と紹介文に書いてありました。

なお、この資料館のある土地は程ケ窪といい、平田篤胤の「勝五郎再生記」(なんと岩波文庫化!)で名高い「程ケ窪小僧勝五郎」の生誕地である。むかしオカルトファンだったころ、ドキドキして読んだ記憶があります。勝五郎は、突然、中野で死んだ子どもの生まれ変わりだと言い出したんです。

2月12日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も都内、しかも二十三区内に行動範囲をとどめた。

〇文京ふるさと歴史館 ・・・ 太田家(太田道灌系)に伝わる「八景十境書・図」が公開されたので見てきました。

撰文・林鵞峰(字は息子)、絵・狩野文信という素晴らしいものです。山の描き方について勉強になった。

〇迎賓館赤坂離宮 ・・・ 音声ガイドを借りて回ってみた。

時間つぶしに来てるので、リピーター化しています。

〇国立新美術館 ・・・ メトロポリタン美術館展「西洋絵画の500年」を観覧。やはり高いですね。図録も。

「ああ、あの絵がこれか」というような絵ばかりありました。みんな案外小さいなあ。ちなみにこの絵は「占い師の女」とかいう絵で、奇抜な服装と、中央の如何にもプライドの高そうな若者が、占い師の女(右端)と何やら話している間に、ほかの女たちによってポケットの金品を掏られている、というオモシロおかしい設定がいいらしい。

ちなみにおいらのお薦めは、ヤン=ステーン「テラスの陽気な集い」(1670)。「世界中、おれたち庶民は先祖代々バカばかりだなあ」と必ず笑顔になれます。

2月13日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は甲州街道・日野宿へ。

〇万願寺一里塚 ・・・ 江戸から日野宿に入りかけるところにあります。江戸から九里。

これと街道を挟んでもう一つあったはずですが、今は跡形もなし。土方歳三生家跡が近所にあるようです。

〇日野宿本陣(下佐藤家) ・・・ 上佐藤家とともに本陣であったとのこと。幕末期に両家とも焼けて、下佐藤家だけ復活。明治天皇のご休憩所ともなる。

幕末の当主は佐藤彦五郎。土方歳三の従兄で姉の夫、という関係。甲州鎮撫隊にも参加し、官軍から探索されたりしていますが、江戸開城後には名主業に戻っています。格式高くてすばらしい。なお、天井張り替えに来てた大工が新選組の人斬り大石鍬の介であるよし。ちなみに小野湖山の詩を柳田正齋(八十八翁)が書いた掛け軸がふすまに貼られていて、土方も見たかも、と解説していたが、明治に入ってからのものではないカナ。

ウメの右下に蓋されている井戸は、明治13年に明治天皇がお見えになったときに掘った「御膳水」。門を馬車が通れず、通路の下を掘り下げたという口碑もあるよし。

〇日野宿交流館 ・・・ 元の高札場跡にあります。宿場町の紹介をしてくれる展示施設があります。日野自動車、コニシミノルタなど大正・昭和期の企業誘致、多摩川の川鮎漁など勉強になった。

川鮎漁は中央線日野駅開業後、観光資源化したようですが、すぐに捕れなくなってオワコン化した模様。観光でやっていくのはムリですよ。

〇新選組のふるさと歴史館 ・・・ 甲州鎮撫について特別展をやっていて、いろんな文書を突き合わせて戦闘状況を再現していてたいへん勉強になった。「燃えよ剣」のせい(甲州側の官軍協力者であったらしい結城無二三を結城の自称どおりに新選組隊士であったとした上で、彼の明治期の口述をもとに小説化)でひどい目にあったようです。司馬さんの小説を史実だと誤解する人は、天草四郎も山田風太郎が小説化する以前から美少年だったと思っているぐらいなので、もう治りません。

ここも土方さん信仰に陥っている感はありますが・・・。

かっこいい有山家の土蔵。この三日間、古墳に行ってない。古墳依存症がツラい。

 

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