フィールドワーク録23−2 (起:令和4年2月20日(日))  目次へ  令和4年1月1日〜へ

肝冷斎「風神雷神図」。

2月20日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

群馬県あたりまで行ってみようかと思いましたが、冬タイヤが必要かも知れないので、埼玉県でストップ。

〇青鳥城跡 ・・・ 名前だけみるとファンタジックな善の城かと思ってしまうかも知れませんが、武蔵松山城の支城群の一つです。14世紀に上杉氏系の豪族がまず本郭を築城し、その後、二の郭・三の郭を付け加えたとみられ、最後は北条側城郭の一つとして、秀吉小田原攻めに際に前田利家侯に落城せしめられ、廃城となった模様。

松山城の支城群は国指定史跡になっているものがありますが、この城は二の郭と三の郭の間に常磐道(←2月21日。ほんとにこう書いてしまいましたが、識者から指摘がありました。「関越道」です。老耄が始まっているとしか言い訳のしようがない誤りである)が走っており、県指定史跡どまり、となっています。

それでも昭和九年に指定してくれているので、本郭は全く壊されずに残っている。この空堀の向こう側が本郭。

菅谷館跡などと同様、本郭は土塁と空堀で囲まれた長方形の空間である。

常磐道(←「関越道」の誤りである)を隔てた三の郭側に用水池があり、内堀跡(当時はおそらく空堀)と伝えられる。

この池のほとりに入間郡・児玉郡最大、という「虎御石」板碑があります。14世紀のもの。日本最大はどこにあるのか、調査中。

「片邪」(かたちがい)と言われる技法で作られた、二の郭土塁の間道。最近修復を受けたようです。「大手」など小字名が遺っているといいのですが、何も遺っていないので機能不明。

常磐道(←関越道である。情けない)で壊されていると聞いていたので、大した城跡でないと思っていたのだが、かなり広大で時間を取られてしまった。

〇下唐子古墳群 ・・・ 青鳥城跡から西南方向、都幾川のほとりにある6〜7世紀とみられる古墳群です。都幾川は、古代の古墳、中世の城郭群(木曽義仲、比企氏、畠山氏などの本拠)の密度から、古くから開けていた地であることがわかります。

下唐子1号墳。昭和15年に地元の下田又平さんが勧請した(と石碑が立っている)御嶽神社が立っています。

下唐子2号墳。石室の崩壊により、「冑塚」(かぶとづか)と呼ばれるように一面がへこんでいます。

下唐子3号墳。この八幡社の社殿が建っている小丘が円墳です。側面に回ってみると・・・

神社社殿の下に石室が開いている、ワクワクゾワゾワしてくるような状況になっているので、最近大人気の古墳です。「大」は言い過ぎか。なお、地元の作家が書いた児童文学「天の園」で「恐怖の八幡石室」とされているそうですので、何らかのそういう口碑があるのかも。

神社から南へ、かつての児玉往還を隔てたところにある藪に古墳群があるとのこと。50メートル四方ぐらいですが、荒れ方や入口が無いことからみて、おそらく「入らず禁忌」があるのではないかと思います・・・が、冒険歴史民俗研究者・肝冷斎は入ってしまい、円墳を確認してきてしまった。

〇菅谷館跡 ・・・ 城内に「県立嵐山史跡の博物館」が建っていますが、去年来たときはコロナで休館中でした。今年はマンボウだから開館中。

本郭方面から博物館を望む。入館料100円。館跡は無料。

よろい姿の畠山重忠人形が迎えてくれます。自分語りが長いのがちょっとなあ・・・。国指定史跡の城跡群の出土物や郭構成の解説があり、かなりオモシロい。

昨年同様、本郭、二の郭などを見学した。これは二の郭と本郭の間の掘割と土塁。左端あたりが本郭入口になる。

北条氏の守備した戦国末期の状態が遺されており、畠山重忠時代の菅谷館はこのどこかにあったであろう、ということしか確認されていません。南郭から都幾川に降りられるはずですが、寒くなってきたので帰ります。

今日はほんとは嵐山にある小倉城(全国でここでしか確認できてない緑泥石片岩石垣があり、保存状態のよさも含めて国指定史跡)に行って、あわよくば尾根伝いに青山城まで行こう、と夢を描いていたのですが・・・。青鳥城で時間食い過ぎたのと、風が強くて寒くなってきたので、本日はここまでとさせていただきます。来週から忙しいんですよ・・・。

2月23日(水)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今週はどこかで休みたい・・・と思ってたら、天皇誕生日で祝日でよかったあ。

日曜日に行ききれなかった「国指定史跡 武蔵比企城館跡」に行きます。今回は、尾根の縦走をしようと考えたので、車でなく(車だともとのところに戻らないといけませんからね)、電車で行った。

〇小倉城跡 ・・・ ここまで到着するのにかなり疲れました。やっぱり車で来るべきだったカモ。嵐山渓谷の裏山の尾根部に小倉城跡があり、近世末期の新撰武蔵国風土記に口碑が遺るが、中世の記録が何もないので、遠山氏の居城説と山田氏説とあるようです。いずれにせよ、武蔵松山城の支城として設けられたとみられます。もともと15世紀に麓部の城館はあったようですが、山上の城郭は16世紀のものと考えられるよし。

郭1(主郭のことをここではこう呼ぶようです)の城跡碑。このあたり、建物があったらしいが発掘調査中。ここまで登ってくる途中の虎口もオモシロいです。同好の士らしき人がこのあたり一人でうろうろしておられた。もちろん、コトバを交わすのは失礼にあたるので、目礼のみ。・・・しかし考えたらわたしはただ「中世城郭に興味がある」だけの健全な常識人であり「マニア」ではない、ので「同好」というわけではありませんね。

虎口と郭1の間の石積み。この山の主体である緑泥片岩が積まれています。これより下の郭1と郭3の分岐路あたりには3メートル以上の石積みがあり、「在地系石垣技術の極限」と評価されているそうです。この場合の非在地系が、穴生流なのでしょう。沖縄の琉球石灰岩石積みは「在地系」でいいのかな。

こちらは郭2と郭4の堀切の中から、郭2の突出部を見る。この正面には櫓があって、横矢を射かける工夫がなされており、「この城の縄張り上の見どころ」とされているようです。

郭2の突出部から、遠山方面が見渡せる。真下に都幾川を見下ろすことができる。

〇尾根部縦走中 ・・・ 山中に庚申塔と「鐘同行」の碑がありました。

おそらくここにかつて鐘楼があって、毎月ここまで昇って来て鐘を撞く講があったのではないかと思います。

〇青山城 ・・・ こちらは「関八州古戦録」にも松山城支城として名前が出てくるそうです。山田氏が入っていたという。小倉城同様、最後は北条氏に属し、小田原攻めで落城の後、廃城となった。

二の郭。

本郭。二の郭との間には緑泥片岩をくり抜いた堀切があり、土塁には片岩が散らばっています。が、積み石状でないのでここのは「石垣」ではない模様。

三の郭。本郭からかなり深い堀切を渡ったところになります。

〇仙元山見晴らし台 ・・・ ここまで来るのに大変だった。結局2時間ぐらいかかりました。

ここからはスカイツリーが見えるということだが・・・あ、見えた。ほんとに。

これは見晴らし台近くにある「下里の大もみじ」。なんと樹齢600年という。なにしろ、江戸初期の検地の際に検地官が「あの山中の木はなんじゃ」と訊いた、というのだからそのころに大木だったわけです。このため、一名を「おなわ(検地)のもみじ」という、とのことじゃ。

やっと下山。予定どおり?地上に降りるとほとんど同時に日が暮れました。都幾川を渡る。ここから小川町の駅までが遠かった。

今週末から多忙なんです。なので、今日はかなりの無理をした。年寄の冷や水じゃ。

3月6日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも言ってますが、もはや老境にさしかかり一日たりともムダにできないので、所用のあと中華街にも行かず、わずかな空き時間を使って調査する。

〇日本大通り周辺 ・・・ 開港記念館は12月から閉鎖中だそうです。

神奈川県庁。

横濱税関。ここの資料室も閉館中。

〇開港資料館 ・・・ ここは開いてました。5年ぐらい前に仕事で来たことがありますが、中はまったく忘れてるなあ。横濱写真(ふつうの写真ではなく、明治期に写真に彩色して、豪華なアルバムに入れた日本土産として作られたもの)おもしろいなあ。

瓦版もおもしろい。瓦版は17世紀から見られるが、横濱開港ごろから大量に出回るようになったという。新聞小政もおもしろい。

ここはもと英国総領事館の場だそうです。総領事館にあった「薩英戦争記念碑」がはめこまれている。薩英戦争で死んだ英国兵士の名前と年齢のようです。みんな若いなあ・・・。

〇遊覧船に乗ります。おいらは二十台から四十台まで、昭和の終わりから平成の半ばまで、おいらも日本もまだいいころに、この町に住んでたんで、懐かしくなってきます。スマホやインターネットはおろかエアコンも電子レンジもあんまり無かった時代でしたなあ。まだUFOや大予言や薔薇十字団とか信じていたなあ。

海から見える景色もいろいろ変わりましたね。いろんな人とこの町で話をしましたが、もうこちら側にいない人もたくさんいます。あちらは楽しいんだろうなあ。

横濱に来たころにつくっていたMM21だ。

橋だ。先代のミニ介と何度も渡ったなあ。

有名な赤灯台。これは小学校のころに見た図鑑の中に出ていた。

この町では、いつも「明日はよくなるだろう」と思いながら生きていたのだ。まさかこんな国にして若い人に引き継いでいくことになるとは・・・。

申訳ありません。許してちょんまげ。

3月26日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

雨の中、沖縄に到着。

〇沖展2022 ・・・ 浦添体育館で3年振りに開催されました。

知り合いが出品しているので覗きに行く。

〇仲間拝所群 ・・・ 浦添城の城下町に当たる仲間の街に遺る宗教施設。

・火ぬ神拝所

・根神拝所 ・・・ もと仲間の「草分け」の屋敷という。

・仲間ぬてら ・・・ 「てら」は洞窟(がま)形式の聖所を言います。ここは「琉球国由来記」でいう「長堂御嶽」で、現在の祠の中に洞窟の入り口があり、そこから入ると拝所があったそうです。

一度は来ています。

・くばさぬ御嶽 ・・・ 「コバ下のウタキ」。

原初のころはクバの木の下で子どもを産んだのだ、という口碑が遺る。

・仲間のカー ・・・ 昭和10年に整備されたそうです。

洗濯するほか、行水もつかったはず。ばばあどもがでかい顔して行水してたかと思うと怖ろしいぐらいである。

沖縄に行って怪しからん、という声も聞こえてきました。しかたない、日帰りで帰ります。

 

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