フィールドワーク録23−3 (起:令和4年4月16日(土))  目次へ  令和4年2月20日〜へ

ハマだぜ。

4月16日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

沖縄から始まります。赤嶺、小禄方面へ。

〇高良拝所

〇具志御嶽

〇松川拝所

〇宇栄原公園から首里方面を見る。

〇宇栄原御嶽

上ヌ御嶽

下ヌ御嶽

〇高原御嶽(名前確認中)

〇小禄のアモールガー ・・・ 「雨降り井戸」ではなかろうか。

〇小禄真玉御嶽 ・・・ ウルクヌメーノウタキ

本日はここまで。

4月29日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は雨天で所用が果たせず、しようがないので近代美術館にて

〇鏑木清方展

を見てきました。

会場で流れる昭和30年代のNHKのインタビューで「明治はシアワセな時代でしたよ・・・」と言っていたのが印象的。また、「ばやい」(場合)と言ってました。インタビュアーが(触れる文脈でもないのに)戦争協力について訊いたが、「わたしはいくさは描いてませんよ」と一言で返されていた。

5月1日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お客さんを案内して、水上バス→ゆりかもめ→皇居東御苑→国立公文書館→六本木ヒルズへ。公文書館は5分で閉館時間になったので何もチェックしていない。神宮球場案内するつもりだったが中止に。

勝鬨橋だ。

フジテレビかなんかの展望台から見ると、台場がよく見えます。徳川日本の高度な土木技術である。

58メートルもあったという江戸城天守閣。

5月6日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平日休みを利用して国立公文書館へ。

〇沖縄復帰50周年記念展示をみにいく。

いろいろ食い足りない感じがしました。戦後の沖縄問題で本土側で汗水流した人がたくさんいる。沖縄のやつらはそんなやついなかったみたいな顔をしているから、本土側で記憶しておかないといけないのに、そこがスカスカな気がしました。例えば山中貞則さん。今回の展示で名前も出てこないのはどうしてか。沖縄におもねりすぎカモ。所用があるのであまり深入りはしませんが。

これは730の記録ですね。

こちらも参考にしよう。

5月8日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

午前中、九段の「昭和館」へ。

本日までの「SF・冒険・レトロフューチャー×リメイク 挿絵画家 椛島勝一と小松崎茂の世界」を見に行きました。もっと物語世界とその背景にある少年向け雑誌の世界に突っ込んでほしかったが、絵の方の展示だからしようがないか。

所用の後、夕刻、

〇駒込の諏訪山・吉祥寺を散策。

本郷通りに門があって、入ると広い墓域を持つお寺です。

山門。本郷通に面しています。

八百屋お七とその相手の菩提を祈る碑があって、その近くにでかいオシャカがあります。

お墓をめぐるともっとおもしろいと思いますが、今日は

明治の漢詩人・川田甕江の頌徳碑

を確認したところまでで日が暮れてきました。向こうは元老中・板倉節雪斎の頌徳碑。

5月15日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用が早くすんだので、調査します。

〇平塚市美術館 ・・・ 「リアルのゆくえ」と「けずる絵、ひっかく絵」という二展同時開催中。

「リアルのゆくえ」は明治の「生人形」へのオマージュから現代の作家まで、写実というより「リアルとは彼らにとって何か」という切り口で、わかりづらいが、作品は「金魚」などオモシロい。「けずる・・・」も何か集中してるわけではないんですが、いろんな人の(単に絵具を載せたのではなく)削ったりひっかいたりして作った絵というコンセプトなのでわかりづらいが、岡村桂三郎、山内若菜のでかい絵は迫力あった。

上が生人形「スクネとケハヤ」。明治期に欧米に買われ、平成にまた日本に戻ってきたものだという。生人形の本場は熊本だそうです。

右が岡村の「百目の魚」、左側のは山内の作品である。撮影可なので撮りました。

〇平塚市博物館 ・・・ 無料でありがたいです。二階、三階に上がれました。全部みたのは今回初めてではないでしょうか。宿場の歴史、民俗系、考古学遺物に加えて、丹沢山系の自然系もあるし、相模川についての解説もあって充実しているのですが、企画展の名称がわかりづらい・・・。

民俗宗教に関する展示物。かっこいい。

かっこいい鉱石標本。

相模川の川船だ。

今回の新規収蔵物の中の白眉(と肝冷斎が勝手に思っているの)が、これ↓だ!

神社印掛軸。切り貼りした後がないので、この紙を持ち歩いてあちこちで朱印を戴いたものらしい。放浪の冒険主義的歴史民俗学者・肝冷斎にはこういうのを一生の楽しみにした人(成金か?)の心がわかるのである。

5月29日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

厳しい暑さの中所用を果たし、ついでに調査。さいたま市内の最高標高地「本杢(ほんもく)緑地」へ。

この柵の向こうに階段があり、崖地を昇る。

ここは大宮台地の西端にあり、この崖線の下はかつての入間川氾濫原(現在は国道17号バイパスなどが通る)です。

崖上に本杢古墳があります。6世紀後半とみられる方墳。上の階段のあたりから円筒形埴輪が出ている。入間川から見上げられる典型的なランドマーク古墳だ。

周辺部には古墳群が存在していたようですが、現存するのは三基のみという。

これはその一つ、本杢古墳の東南方200メートルぐらいのところにある日向古墳。小ぶりの円墳。この形で残ったのは、おそらく開発時期が遅い(おそらく昭和期)ので、最近まで「入らず禁忌」があったのではないかと思います。

もう一基は発見できなかったが、久しぶりで古墳に来たので心が洗濯された。もう現世で汚れたくないなあ。

6月5日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上州三碑コンプリートを目指します。十一時に家を出て、四時ごろまでに終わらなければならん。

〇多胡館 ・・・ なんの変哲もなさそうですが、ここは帯刀先生・源義賢の館跡だ。義賢さまは為義の二男、兄貴が悪源太義平、平治の乱の前に部下にコロされてしまいますが、要するに息子が木曽義仲です。

一辺百メートルの正方形で周囲に掘割が確認されています。ここは南西隅あたりに当たる。

〇多胡薬師塚古墳 ・・・ 七世紀後半のものとされる円墳。

井上さん家のお墓の中にあります。古拙愛すべき薬師如来像が載る。

〇多胡碑・多胡碑記念館 ・・・ 多胡碑は上州三碑の一つですが、それより日本三碑の一として名高い。朝鮮通信使がチャイナにも紹介して、日本の名碑跡として海彼にも知られた。明治初年に覆屋が設けられて保護され、大正年間には史蹟指定された。確かにすごいいい字です。へたうまっぽいところも含めて。

多胡郡の設置を記念して作られた碑(8世紀のもの)だが、郡の設置を仕切った「羊」の名前が出てくる。この「羊」は現在では渡来系指導者の名前、とされるのが定説だが、他に全く見えないので、族名、動物名など諸説ある。

記念館に三碑並んでレプリカがあったのでセットで見れます。真ん中が多胡ピー、左が山上碑、右が金井沢碑。

真ん中の覆屋の中に碑があります。多胡碑は終戦直後に地元の人たち(国からの口頭指示があったとする説もある)が進駐軍に見つからないように土中に埋めた。翌年には掘り出されて元の位置に戻された。文化を愛するひとびとの行為として美談にしてあるんですが、ほんとにいいんかなあ。ボランティアの人に訊いたら、ここから南方800メートルぐらいのところに埋めたとのこと。

〇山上碑、山上古墳 ・・・ 山上古墳には、三家氏の健守さまとその孫の黒なんとか姫が葬られており、黒なんとかの息子の僧侶・長利なるひとが建てた碑が山上碑である。

これを昇っていかねばならない。当時は下の川から見上げられたのだと思われます。

〇山名八幡宮 ・・・ 中世・山名荘を開いたのは新田源氏山名氏。山名の名字の地である。今も山名氏の子孫が寄付とかしているみたいです。玉垣には、自民党幹事長時代の中曽根さんの名前もありました。

明和年間の権現造の正殿はすばらしい。いろんな動物が刻まれています。一見すべき。

門前にある「太刀割り石」。平安時代に木刀で割られたとのこと。「割られている」ようには見えないのが玉にキズ?

陰陽木というのがありました。皮が剥ける突然変異になっていて、それがニョインに見えるからかな? 根本には左に陽石、右に陰石があります。

〇金井沢碑 ・・・ 三家氏が仏教を信仰していくことを宣言した碑。上州三碑キャラの中では女の子キャラとされていて「かなピー」と名付けられている。

山中にあるんですが、往時はいったいここは何だったんだろう。

なんとか上野三碑をコンプリート。所用に向かう。

6月11日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ほんとの所用で沖縄日帰り。雨が激しい。

〇糸満・白銀堂 ・・・ 銀の龍が出たというウタキ。仏教信仰と習合して王府時代から「白銀堂」(なんじゃどう)となった。現代は「はくぎんどう」と呼んでいるようです。

お堂の地下に洞穴(ガマ)があります。左手に大きな岩があって、その隙間も聖地。

そのあと、糸満・照屋城に向かったのですが、豪雨で断念。

〇照屋の石獅子 ・・・ 八重嶽からの「火」の攻撃を打ち返すための獅子です。

視線の方向に八重嶽があるはずなんですが、驟雨で見分けられません。

6月12日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用のあと、山口観音にお詣りし、小手指駅に向かう。

〇北野天神社 ・・・ 小手指にあります。道真さま五代の孫なんやらさまが10世紀末に勧請した、関東最古の天神さまですが、もともと式内社。

鎌倉街道沿いにあり、小手指合戦(第二次)の際に宗良親王の陣となったとか、日本武尊お手植えの桜とか、頼朝さま勧請の日本全国式内社祭神(三千余柱)がいっぺんに拝める社とか、いろいろあるんです。

毎年、桜の季節(オープン戦から開幕のころ)にはお参りしてたんですが、コロナ以降久しぶり。境内には小手指航空神社もあります。

以前から異常な関心を持っている「こてまる」。左上の看板に解説が詳しくなっていました。これによるとフルネームは「小野井小手丸」とのこと。道真さまゆかりの烏帽子、新田義貞公がらみの腹の家紋、「小手で指す」ポーズも理解可能ですが、この黄色い変ないきもの?はもともと何なのかさっぱりわかりません。 ひるこ?

今回驚いたのは社前にあったこの「藁の馬」。数年前には無かったはず。誰が何のために作ったか、解説は何もありませんが、製作者のすさまじい技量だけはわかる。

7月23日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

イースタンリーグがコロナで中止、高校野球や社会人も今日はやめておこう、と今日は久しぶりで調査。

〇弥生美術館・夢二美術館 ・・・ 文京区弥生にある私設美術館です。予約不要になったので、行ってみました。夢二先生はまともな絵画教育も受けてないのに売れっ子になって、女性にもてた、という肝冷斎から見れば雲の上の人なので、それなりに興味を持っています。

弥生美術館。

村上もとか展開催中。村上先生の人物造形がどうしてもダメ(善玉・悪玉が明確すぎて)で、ほんとに初期作品しか読んでない(小山ゆうよりはましですが)。「空の城」については触れていませんでした。「赤いペガサス」は兄妹婚問題と血液遺伝問題(ボンベイブラッド)が背景にあったのでドキドキしたのだが、血液問題は紹介されてないなあ。

隣といいますか、二階がつながっている夢二美術館では学芸員のギャラリートークがあったのでみんなの後ろについて歩く。港美術店で小物を売る、少女雑誌に部屋を飾る手法を提案する、海外雑誌のモードをいち早く紹介する、など、定年後の人生に参考になります・・・かね。

もともと高畠華宵のコレクターが始めた美術館です。高畠先生といえば「美人画」より「美少年画」の方がインパクト強いですよね。先生はちゃんと日本画の修業を積んでおられるので、肝冷斎の生き方的には参考になりません。

〇東京都庭園美術館 ・・・ 前回は展示会をしてなかったので、建物に入れませんでした。今回は予約も不要になった、というので、行ってみた。旧朝香宮邸としては、若宮居間とか姫宮居間とかいう構造はおもしろい(トイレや浴室は別)ですが、赤坂離宮を見てくると、同じ宮内省内匠局の作品でも、やっぱり「ちゃち」な気がします。

ファザード。展望室まで昇れるかと思いましたが、許されていませんでした。

有名な入口扉の意匠。よくこんなこと考えつくなあ。

このコップのお化けみたいなやつから香水を流したんだそうです。妃殿下の御差配で。

元東京都迎賓館ですが、どの部屋をどう使っていたのだろうか。

ベランダと称する場所です。

蜷川美花さんの写真展をやっていました。蜷川さんは神宮球場で流れているヤクルト1000のCMに出ている睡眠の質の向上なさられた方、というイメージしかありませんでしたが、今回の作品中「胡蝶の夢」は幻覚作用あります。

こんな花の接写動画がどんどん変わるんです。赤になったり黄色になったり青になったり・・・。睡眠の質向上してくるかも。

調査を終えて、夜の所用へ。

7月31日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日予定していた夜の所用が中止になった。スーパー銭湯でも行きたいところですが、昼の所用終了後のわずかな時間もムダにすることはできず、所沢の「滝の城址」へ。

柳瀬川西岸の河岸段丘上に、本丸・二の丸・三の丸の縄張りが予想より見事に遺っており、その間の空堀(かなり修復されていると思いますが)も深さ・幅ともにスケールがあって、さすがは北条、さすがは氏照よ、と感心しました。

実際には、この城の縄張りは大石氏とも太田道灌とも言われておりますが、1570年代に氏照が入り、下野方面への「馬ぞろえの城」(戦略策源地)となっていたそうです。三の丸「茶のみ丸」は出陣前に部将たちと茶を飲んだところだという。その後、氏照は武田の備えに八王子に移った。

秀吉小田原入りの時に陥落。浅野長政に北側(尾根沿い)に攻められ、一日で落とされたという。

段丘の途中ぐらいにある城山神社鳥居。ここから昇ってみます。

弁膜症かなんか(推定)でひいひい言いながら石段を登りきると本丸跡の平地へ。

本丸南側の土塁を修復するため平成年間に教育委員会が掘ったところ、土塁崖側に7〜8世紀の横穴墳墓(「滝の城古墓」)が出てきた。現状では8室発見されているようです。真ん中の看板はそのことが書いてあります。

土塁のところから見下ろすと、柳瀬川とその向こう側、空気が澄んでいれば関東平野のかなりの部分が見渡せるはず。

神社社殿の裏側に行くと、四脚門跡があります。小田原攻めの際に焼けた木材と鉄砲玉などが発掘されている。この向こうの堀に引揚げられる橋がついて、三の丸につながっていたという。

これが三の丸側の「本丸虎口」から上の場所を見てみたもの。地肌の見えるところが門跡になります。

これは二の丸跡。ここに駐車場があった。なかなかわかりづらい。現状ではこちら側から本丸に渡れます。

三の丸から公園区画を出て、住宅地にある「推定大手門跡」を通り、外堀に降りてみる。遊歩道がありますが、堀はかなり深い。ぶよが多くてたいへん。

遊歩道を回ってもとの鳥居前に戻ってまいりました。これは鳥居付近にある「霧吹きの井戸」。なにかいわれがあるのでしょうが解説は見つかりませんでした。「血の出る松跡」もあったが、なにかいわれがあるのでしょう。

公園としての整備もよく出来ていて、これはいい中世城郭です。横穴墓もあるから一石二鳥。やっぱり調べてみるものだなあ。

8月3日(水)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇南城美術館 ・・・ 南城市に今年からできた私立美術館です。企画展を見に来ました。

斎場御嶽の裏になります。あの森の向こうは・・・。

〇佐敷上ぬ城 ・・・ つきしろの宮。第一尚氏の最初の根拠地ということになってます。

苗代親方・尚紹思は折口先生が言うように、肥前倭寇・名和四郎なのであろうか。

〇島添大里城 ・・・ しましうふさとぐすく。「しま添」は「うら添」とともに第一尚氏に滅ぼされて、尚巴志は「すい」(首里)に都した、ということになっています。

高くなったところに館があり、その下の平地が「一の郭」。儀式用の(首里城でいうところの)「御庭」であったとのこと。本佐倉城など本土の中世城郭にも祭場遺跡が発見されており、これらが一連のものであることは明らか。高くなったところの向こう側は急峻な崖で、難攻不落と称されたが、南側の尾根から尚巴志に攻められたんだそうです。

なお、城郭内にかにまんうたき(金丸御嶽)などもあります。

大里城の石垣の外にある「ちぢんがー」(井)。今も水が湧いている。

〇島添大里村落内

・ふすみうたき ・・・ 村民が生まれたときにお詣りする「うぶすな」。「ふすみ」は「へそ」です。

入るとふたの開いた二枚貝みたいな石があります。

・ぎりむいぐすく・ぎりむいうたき ・・・ 「ぎりむい」は「食栄森」と表記されます。南風原にも同名のウタキあり。

大里城から自然の堀切(現在「島添上方道」になっている)を隔てた丘にあり、「出城」とされています。

・みーぐすく ・・・ 「新城」です。物見砦的な位置づけらしい。現状はパークゴルフの中にあります。

展望台のところが砦跡らしい。旧日本軍の高射砲陣地となっていたとのこと。右手に塹壕あり。

みーぐすくから見渡してみる。右手の方に佐敷上の城、すくな山、与勝諸島、中城、首里などが見える。日本からの船の入港があればすぐに発見できます。逆に唐船は見つけにくいかも。

・・・このあたりで今回は時間切れ。ルートビア飲んで帰ります。 

8月7日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

時間が出来たので、所用までの時間を使って内房と外房に間にある土気城を調査に行こうと総武線→外房線に乗ったが、土気駅あたりはすごい驟雨になっていたので、カミナリ撃たれるのもイヤなので、終着の上総一宮へ。

〇上総一宮・玉前神社 ・・・ 玉依ひめの命を祀っております。海人族が房総半島に上がってきた証拠だと思いますが、古墳は夷隅の方にあるので、この神社のあるあたりが、@外房から海人族が上がってきたところなのか、A内房から上がって半島を横断して下りてきたところなのか、わかりません。

四十年ぐらい前に来ているし、その後十年ぐらい前にブー太郎(←縁故車のこと)とも来たことがある・・・はずと思っていたのに、記憶の中のそれと大違いでした。どこと勘違いしていたんだろうか。

皇親なのであちこちに十六弁菊が飾られていました。

右手は日清戦争の戦死者21人の顕彰碑。左手は西南戦争の戦死者16人の顕彰碑。西南戦争のはあんまり見たこと無いので珍しい。それにしてもずいぶん亡くなっていますね。

上総一宮は、この間、鎌倉殿に粛清されたと思いますが、平広常の本拠地です。彼の居城と伝わる高藤城まで行きたかったのですが、徒歩ではきつそうなのでまた次の機会に。

〇一宮城跡 ・・・ 譜代一宮藩(幕末は加納氏)の陣屋跡で、それ以前、里見・北条の激しい攻防の舞台となり、秀吉小田原攻めでは徳川の猛攻の前に陥落した中世・一宮城の跡地のはず・・・なのですが、縄張り的なものを示す表示がありません。

「大手門」と書かれたコンクリート製の構築物ですが、陣屋時代にほんとにここに大手門があったのかどうかもはっきりわかりません。

上総一宮藩といえば、幕末の藩主・加納久宜が有名です。

大手門から入って海側に行くと、一宮の町を見下ろす場所に分骨墓がありました。

加納久宜は維新後、大審院判事、鹿児島県知事、帝国農会初代会長などを務めたおそろしく有能な人です。特に日清戦争期の鹿児島で「勧業知事」と謳われた功績は著しい。明治45年に請われて一宮町長となり、土地改良や教育振興に邁進した。

左の方に、令和元年に曽孫である麻生副総理が揮毫した碑があります。記されているのは、

「一に公益事業、二に公益事業、ただ公益事業に尽くせ」

という遺訓。

加納久宜は忘れられていない方ですが、日本中にこんな人たちがたくさんいて国造りに邁進したのだが、もう忘れられている人も多いので、若い人たちがもう少し思い出すといいのじゃがのう・・・と思っています。のじゃ。

城跡から西方に降りたあたり、典型的な「谷津田」になっています。谷から出てくる谷川の周りに、狭い水田を設ける。これが16世紀終わりごろまでの日本の最先端農業であった。その後の水利水防施策の充実で、今みるような平野部の水田が開墾されていくのである。

 

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